第3章 酒浸りの大学生活と母の寵愛

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演劇はお金がかかる。困ったときに永沢が頼るのは、やはり母親だった。彼はそのときの様子をこう綴っている。    芝居の制作でお金が足りなくなったとき、ぼくは10円玉で大阪から仙台のおふくろに電話して「100万円よこせ」ガチャン、ですからね。そのうち、60万円は飲み代に消えましたけど(笑)。 『ノンフィクションを書く!』井田真木子、中村智志他    母親の昌子さんはお金を出すだけでなく、公演があるたびに仙台から駆け付け、観劇した。そして、高校時代の恩師である渡辺先生に電話し、感想を楽しそうに話していたという。大学の学費を支払い続けたのも、もちろん母親である。 「愛の冷やしパンツ」の活動期間は3年間、3本の公演をもって演劇活動は休止となるのだが、三枝氏や安藤氏との交流は変わらず続いた。もちろん、そこには常に酒があった。彼らの拠点となったのは鳥仙だ。  同店があったのは、大阪・天王寺にかつてあった「あべの銀座商店街」。西成や飛田新地にほど近い、いわゆるディープな飲み屋街である。競馬で勝った帰りの客が来ると、ほかの飲み屋にもすぐ連絡が行き、「あの客は金持ってるで!」と伝達される。たちまち客引きがたかり、飲み屋から遊郭まで連れていかれ、肌身をはがされてしまうという都市伝説のあった一角だ。学生運動の活動家たちのたまり場もあり、公安がよくウロウロしていたという。新宿でいうとかつてのゴールデン街のような、魔窟のごとき怪しさのある飲み屋街だったのだろう。  実際、鳥仙の客も変わった人が多かったという。文芸誌の編集長や写真家や医者、大学生たち、そして何をしているのかわからない怪しい人たち。かつて常連だった人は、こう回想する。 「これ知っているか? と店のなかでパンツを脱ぎよって、真珠入りのチンチンや、って見せられたんです。少年院に入ってるときに、歯ブラシの柄をコンクリートで削って丸くして、そのまま入れたらばい菌がついて危ないから、口のなかで消毒して入れるんや、って言うてましたね」  かと思えば店の人は、入り口の前で寝ている酔っ払いに水をぶっかけて追い払う。そのように店側も客もたくましく、自由奔放な空間だったのだ。  永沢が初めてやって来たのは、前述したように大学受験の前日だ。当時を、鳥仙の店主である通称おばちゃんはこう振り返る。 「ふらっと入ってきて、『黒岩重吾の小説であべの銀座のことを書いてあった。面白そうなところですね』と言ったわ。それで周りのお客さんに、あのアホ芸大は飲まな入られへんぞ、みたいに飲まされてましたね」  大阪芸大に入学後、永沢はほぼ毎日のように鳥仙に通うようになった。当時、焼き鳥が4本で200円、ビールが400円。庶民的だが、学生が毎日通うとかなりの金額になる。お金の出どころはもちろん、母親からの仕送りである。当時、お金のなかった三枝氏や安藤氏にも、永沢はいつもおごっていたという。  鳥仙での永沢は、居合わせた人と仲良くなるのが抜群にうまく、たちまち人気者になった。人生経験豊富な大人たちが、単なる大学生の彼に、なぜか話を聞いてもらいたくなるような雰囲気を醸し出していた、とおばちゃんは言う。 「聞き上手やったな。人見知りしているようで、していない。飲んで、みんなの話を聞いているという感じやった。自分から面白い話をするとか、ふっかける話はせえへんかったからな」  後に『AV女優』で、名インタビュアーと称されるようになった永沢は、話を引き出す秘訣として、まさにこの時代の経験があったからだと話している。  まあ、だてに飲み屋には行ってないから(笑)。学生の頃、飲み屋でおっさんの話を訊くのが好きでしたね。おっさんが話し始めると、「やった!」という気になりました。嘘か本当かわからないけど、わくわくしながら延々と物語を聞く。全然知らない世界じゃないですか。聞いていて楽しくなって、もうおっさんの世界に入りますよね。 『ノンフィクションを書く!』井田真木子、中村智志他  おばちゃんや三枝氏や安藤氏など、大阪で親しかった人々と永沢の付き合いは、この後30年近く、永沢が亡くなるまで続くこととなるのだった。  永沢の母・昌子さんと、大阪の母・おばちゃんの交流が始まったのも、永沢が大学生のころ。「愛の冷やしパンツ」の公演を、母親が観に来たときに初めて会った。「派手なおかんでな。紫色や黄色の洋服を着たりしてたわ」と、おばちゃんは印象を振り返る。  公演の準備で忙しい永沢の代わりに、おばちゃんが阿倍野のバス停まで迎えに行き、一緒に観劇した。おばちゃんは「わけわからん芝居」という感想だったが、昌子さんは大絶賛していた。そして、「光雄の夢は私の夢です」と目を輝かせていたという。  久々に息子のもとを訪れた母親は、会えなかった時間を取り戻すかのように数日間滞在し、彼の世話をした。たまりにたまった洗濯物を、レンタカーで何往復もして、クリーニング屋に運んだ。汚れ切った布団を新しく買ってあげてくださいと、おばちゃんにお金も託した(本人に渡すと飲み代に使ってしまう、と予見したからだそうだ)。もちろん、仕送りの使い道や酒浸りの日々について、息子を叱ることや注意することは一切しなかった。だがそんな愛情をよそに、永沢は母がくれた佃煮などの食料を、押し入れに放置して腐らせてしまうこともしばしばだった。  大阪芸大に入学して4年。本来であれば卒業間際の時期に、大学の総務課から母親に電話があった。永沢は大学に行かなくなっていており、卒業できないという。結局、大学は中退した。それでも母親は、落胆するどころか、「両親が4年間授業料を収めたことに誇りを持ちましょう」と受け入れた。  それだけでない。その後、永沢はある会社に就職が決まったが、思うことがあったらしく、入社を辞退した。その報告を受けると、母も「辞めていい」と伝えたという。父親は激怒したが、母親はここでも永沢の味方であり続けたのだった。 
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