第3章 酒浸りの大学生活と母の寵愛

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 その後も昌子さんは、永沢が亡くなるまで、月10万~20万円を仕送りし続けた。彼が晩年に住んでいた新宿御苑前にあるマンションの11階の部屋も、真偽は不明だが、彼女が買い与えたという話がある。  昌子さんは、永沢が死去した数年後に亡くなっている。おばちゃんは、亡くなった方のことを悪くは言えないけど、と前置きしたうえで、「ゴッドマザーだった」と語る。 「おかんは過保護を超えてたな。ちょっとおかしいと思った。自分ができへんかったことを、光雄に半分乗っかってやらせているなと思ったわ。下の息子(弟)も、放ってはおけなかったかもしれないけど、光雄ほど溺愛してへん。ちょっとハミ子やったん違うかなと。やっぱり光雄本位やったん違う?」  永沢と8年間交際し、婚約までした女性も、昌子さんの強すぎる愛情が、彼を縛り付けていたと言及した。そして、「永沢を殺したのはお母さんだと思っています」と打ち明けた。  永沢の小説やエッセイに、Rさんとして登場する女性がいる。大学時代、よしこちゃんと別れた後に知り合って恋人になり、一緒に上京して暮らしていた相手だ。年齢は永沢より2歳下。彼女は会社勤めをしていたが、永沢は小説を書くといって働かず、1日中原稿用紙の前にいた。そんな彼に、Rさんは飼っていた犬の散歩をすることで、1回500円をあげていた。1日3回、1500円を貯めて、永沢は焼き鳥とチューハイ代にしていたという。だが結局、働かない永沢に愛想を尽かし、彼女は去って行ってしまう。Rさんとのエピソードはそんな風に描かれている。  犬の散歩の話は、本当だという説と、あまりにもでき過ぎているため嘘だという説の、両方があった。Rさん本人に会うことができ、確認すると、「完全に事実ですね」と笑いながら答えてくれた。この方こそが、永沢の婚約者だった方だ。  Rさんは、永沢と同じ年に大阪芸大に入学し、共通の友人を通じて知り合った。「愛の冷やしパンツ」の活動が終わりかけのころだった。会って少し話した瞬間、2人は引かれあい、すぐに付き合うようになったという。 「多分、波長が合ったんじゃないかな。心の中が透けて見えたというか、こんなときに傷つくとか、こんなときに寂しいとか、ふっと目を上げたときに彼の見ているものが私にも見えた、みたいな感じでした」  2人はRさんの部屋で同棲に近い生活を始める。彼女が卒業した後、東京に行きたいという永沢について、2人は上京。世田谷区のアパートで暮らし始めた。永沢との日常は楽しいことがいっぱいあったとRさん。散歩へ行ったり、海や温泉へ行ったり、交換日記や手紙のやり取りをしたりと、何気ないけれど幸せな時間をたくさん共有した。甘えたがりな性格のRさんを、永沢はしっかりと受け止める役割だったという。  Rさんは下戸だが、永沢について飲み屋に行くこともあった。人前でも必要以上に彼を立てることはせず、「気に入らないことを言ったら水や酒をかけたりしていました」と笑う。一緒に動物園に行ったときは、後の『AV女優』にも通じるような、永沢の優しさを表すエピソードがあった。 「たくさんウサギがいたんですけど、ほかのウサギにかじられたのか、耳がギザギザになっている子が永沢の足元に寄って来たんです。こういう子に慕われるんだね、という話をしたことがありますね。本来は力強くても、弱い立場に置かれてしまったものに対する優しさは、人一倍あったと思います」  だが一方で、永沢が抱えている危うさも、常に見え隠れしていたという。酒を手放せず、酔っぱらって人々と交流したりはじけたりする永沢の姿は、どこかつくられたようにRさんには映った。Rさんの前だけで見せる、むき出しになった本来の永沢は、常に死に向かっていたのだと彼女は話す。 「あまりにもセンシティブだから、自分のままではいられなかったと思います。だから、酔っ払ったり、おちゃらけたりすることに全力を傾けていた。そうすることで人とコミュニケーションを取り、同時に自分のバランスも保っていたと思います。とにかく感覚を麻痺させないと、彼はもっと早く死に向かっていただろうし」  おそらく本人も、自らのなかにある死への衝動には気づいていた、とRさんは続ける。  一緒に演劇活動をしていた安藤氏も、永沢の繊細さを目撃したことを回想する。 「永沢のアパートで飲んでいるときに、彼が過呼吸の発作を起こしましてね。ビニール袋をかぶって、二酸化炭素を吸って過呼吸を治めることをしていました。発作を見たのはそれ1回だけだったのですが、もしかしたらデリケートな部分があって、彼の家に僕たちがいて話していること自体が、精神的な負担になっていたのかなと」  永沢自身も、著書のなかで、幼いころから鬱や希死念慮にさいなまれていたと書いている。死への衝動と、それを防ぐために薬や酒に頼らねばならなかった心情が実に生々しい。  子供の頃から私は自分の鬱病気質に苦しんできた。いつも、わけのわからない絶望感が体を占領し、死とか自殺とかいう言葉が隣でほくそ笑んでいた。高校生の頃に精神病院に足を向けたが、子供だましのような精神安定剤はセイロガンほどの役にも立たなかった。20代になり、私はアルコールにより自分の正体をなくし自分と対峙しない術を覚え、なんとか或る会社に勤めることができた。だがアルコールと鬱病気質は絶妙な相関関係にある。自分に絶望している自分をどうすることもできずに酒を飲む。何杯か飲むうちに本来の陽気な自分と思っている自分がやってくる。だがその時点で飲酒をやめるのはほぼ不可能だ。したたかに酔う。そして翌日はお決まりの自己否定だからまた酒へ手が伸び…… 『二丁目のフィールド・オブ・ドリーム(『王貞治を読んでしまった。』)』永沢光雄  大抵は日がな一日、襲ってくる自分の将来への不安をアルコールで吹き飛ばすことに懸命だった(中略)一種の、緩慢な自殺であったかもしれない。とにかく、睡眠薬とアルコールで、一秒たりとも素面の自分と面と向かうのを私は拒んでいた。それこそ、一瞬たりともてめえ自身と顔を見つめあったら、本当に喉をナイフでかき切りそうだった。 『二丁目のフィールド・オブ・ドリーム(『夏、大越基。冬、大越基。春! 大越基。』)』永沢光雄
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