プロローグ

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プロローグ

「ライターをするのならさ」  30代後半の週刊誌記者は、酔いでややとろんとした目を僕に向けて言った。深夜2時、新宿ゴールデン街。2010年のことだった。フリーライターになったばかりで、当時30歳の僕に、この本は絶対に読んだ方がいいよ、と彼は著者名とタイトルを挙げていった。沢木耕太郎『深夜特急』、山際淳司『江夏の27球』、本田靖春『誘拐』など、知っていたり知らなかったりするノンフィクションが挙げられ、最後に紹介されたのが故・永沢光雄の『AV女優』だった。  1996年に刊行された『AV女優』は、その名の通りAV女優たちへのインタビュー集である。僕は未読だったが、読書好きの友人が絶賛しており、その存在は知っていた。  単なる読書好きに勧められたのならともなく、自分が生業にしようとしている業界の先輩に言われたのでは、無視できない。僕は早速、ほかに勧めてもらった数冊と一緒に、ネット書店で同作を購入した。次に先輩記者に会ったときに、ちゃんと買って読んだという既成事実をつくっておけば、仕事を回してもらえるなど良いことがあるのでは、という打算が7割。純粋に作品として読んでみたい、という好奇心が3割。『AV女優』は、そんな動機で購入した1冊だった。  数日後、届いた数冊のなかに、500ページ以上はゆうにあろうかという文庫本があった。それが『AV女優』だった。同作はもともとAV情報誌、つまりエロ本で連載されていた女優へのインタビューがもとになっており、書籍には42名分が収録されている。  薄紫色の表紙には、口を小さく開き、マフラーを両手で抱え、まっすぐにカメラを見つめる女性の姿がある。喜怒哀楽のどの感情にも当てはまらない、けれど何かを訴えかけているような表情が印象的だった。後で知ったが、その女優は日吉亜衣さんという人気女優で、本編にも登場している。  早速、本を開く。前書きはなく、いきなり冬木あずささんという女優へのインタビューが始まった。大げさでなく、度肝を抜かれた。冬木さんという人間が紙面から飛び出してすぐそこにおり、表情や仕草が目に浮かび、声が聞こえてくるような、圧倒的な臨場感があった。冬木さんへのインタビューは、彼女のこんなセリフから始まる。  広島の女は気が強いけ。あんた、奥さんを殴ったことある? ほう、あるんけ、その時、奥さんどないしとった? 泣いとったんか。広島の女はそうじゃないけ。相手がダンナであろうが恋人であろうが、やられたらやり返すけ。ウチが結婚してダンナに殴られたら、『おんどりゃあ、なにさらすんじゃ』言うて、そばにある灰皿でもなんでも、物を持って殴るけ。投げはせん。投げてはずれたらしまいじゃろ。持って殴るのが確実じゃけ。木刀があれば、ぶちいいんじゃがのう。木刀で突けば、相手が男でも一発でしまいじゃけ。そうじゃ、うちが結婚する時は嫁入り道具の中に木刀も入れることにするけ。木刀さえあったら、ハア、何があっても安心じゃけ。(『AV女優』永沢光雄)    続いて、冬木さんがいる広島に、永沢ら取材陣がたどり着く場面。待ち合わせ場所にやって来た冬木さんは、彼らにこう声をかける。 「遠いところを、ようきてくれたねえ。お腹へってるじゃろ。ウチが美味しいお好み焼き屋に連れて行ったるけ」(『AV女優』永沢光雄)  冬木さんの案内で街を歩いていると、パチンコ屋の店員が彼女に声をかけ、 「ようけ玉の出る台が、まだ空いとるよ」 「ホンマ? ほんなら後から来るけ、その台は空けといて」(『AV女優』永沢光雄)  というやり取りが交わされる。知り合いなのかと尋ねる永沢に、冬木さんは「知らん知らん」と首を振り、お好み焼き屋では「やっぱりお好み焼きは広島に限るけ。なんといっても、ソースが違うけ」と笑うのだった。  最初の2ページにあるこの描写だけで、冬木あずささんという人間のある一面であり、同時におそらく本質的な姿が、これでもかというほど表れている。読み進めると、冬木さんはさらにいろいろな一面を見せてくれた。  16歳まで生理が始まらず、自分は本当は男で、今にチンチンが生えてくるのではと悩んだこと。母親に相談すると、「ナプキン代が浮くしええじゃろ、このままこんかったらおもしろいけ、(生理が来ない)ギネスに挑戦してみい」と一蹴されたこと。青少年の悩み相談室に電話し、そのことを「びったれそうな(汚そうな)」女性に相談したこと。  AV女優になり、撮影で東京に行ったとき、サンシャイン水族館でマンボウを見た感想を「ビックリしたけ。なんであんなキッカイな魚が生きとるんじゃろ。東京にはなんでもあると思うとったけど、マンボウまでいるとは思わんかったき。ウーッ、マンボ! じゃ」と言い表したこと。  かと思えば子どものころ、おもちゃやゲームを買ってもらえなかったが、一度だけ親におねだりした思い出として、「空気銃を買うてください、言ったんよ。ハア、近所にぶり気に食わん年上の女がおって、そいつがウチのことを『みにくいアヒルの子』って言うとったじゃけ。そりゃま、色は黒いし決して可愛い子じゃなかったけど、ばり腹が立ったじゃけ。その子を空気銃で撃ったろうと思ったけ。結局、買うてもらえんかったから、夜にその子の家の前まで行って、石を投げて帰って来たけ」と物騒なエピソードを思い返したこと。  水泳をしていた冬木さんが、水に入るのが好きだと振り返る場面は、「泳ぐというより、水の中にもぐるのが好きじゃけ。水の中にいると、なんか違う世界に来たみたいな感じがするじゃろ。耳がツーンとなって。あれが好きじゃけ。ウチの本当の親はカッパじゃと思っとるけ」と書かれている。  読みながら、ふと思う。AV女優へのインタビューで、生理のことはともかく、なぜマンボウや空気銃や水泳のことを聞いたのか。雑談のなかでたまたま話題に出ただけだとしても、なぜ採用して文章にしたのか、にわかには理解できなかった。  こういった描写は、冬木さんという人間の像をより多面的に、詳細に浮かび上がらせているが、エロ本のインタビューなのである。もっと読者が求めているような、いわば「抜きたくなる」ような内容のほうが適切なのではないか。恋愛や性体験にも触れられているが、あくまで冬木さんの半生の一部としてであり、ことさら特別にフォーカスされているわけではなかった。  だが読み進めるうちに、この本の趣旨を理解し、納得できた。永沢が向き合って話を聞き、描いたのは、AV女優ではない。たまたま職業がAV女優というだけの、ひとりの女性だった。そのライフストーリーや素顔が、たまたまエロ本で連載されていただけだったのだ。性愛の話に重きを置かれていないのも当然だった。
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