ふるえる卵

6/7

14人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 落ちる。落ちる。世界が足元へ吸い込まれていく。腕の中の卵はまだ、キースの震えを心地よく玉子に伝えていた。しかしそれも彼から離れるにつれ徐々に収まっていく。玉子がと、そこには陽炎みたいに歪んだ、大きな亀裂。恐らくその先が次元の狭間なのだろう。興味深くはあれど怖くはなかった。生も死も永遠さえ怖くはない。……あの日、玉子は恐怖を失ったのだ。  ――幼い頃、玉子は森の奥の館へと攫われた。豪奢な館に使用人の姿は無く、人間離れした獣のような主人と、主人を恐れた大人達が献上していく子供が居るだけ。大人達が時々対価を受け取るのを見て、玉子は自分が貧しい両親に売られたのだと気付いた。  集められた子供達は奴隷でも慰み者でもなく、食糧。そこは食人鬼の館だったのである。主人は子供を散々痛めつけ、恐怖で肉を仕上げてから食べることに(こだわ)った。毎夜館では血の宴が開かれ、子供の悲鳴が響き渡る。一人減ってはまた補充される仲間。食糧。やせ細っていた玉子は太らされる為に後回しにされ、その惨たらしい光景をどの子供より長く見続け……心が壊れた。恐怖心は消え、絶望を煽るだけの優しい記憶も、名前と共に失った。  主人は恐れを抱かない玉子に腹を立て、あらゆる手段で恐怖させようと試みたが、無駄だった。その内自分に臆することない彼女に利用価値を見出し、手伝いをさせる事にする。玉子は主人が仕上げた肉を調理する料理人となったのだ。  館の料理人となり十年程経ったある日。突然、主人が死んだ。持病か突発的なものだったのかは分からない。玉子はそっと食糧庫の鍵を開け、自分も館を出た。  久しぶりに出た外は、広すぎた。空の青、森の緑、鳥の羽搏き、虫の音。世界はうるさく、ごちゃごちゃ、美しかった。失った恐怖は戻ってこなかったが、好奇心だけが生き返り、ムクムクと湧き上がる。玉子はそれからは気の向くままに、館から持ち出した食糧や森の果物で生きていた。そして卵を預かり、キースと出会った。  一見無感情に見える彼の、驚いた顔。困った顔。玉子が笑うと、笑みは返さないものの小さく息を吐くところ。彼と居ると知りたい事がどんどん増えて、時間が足りなかった。彼にとっては重い宿命の危険な旅。玉子にとってはただ楽しかった旅。それが今、終わる。  ……本当は優しい彼が、崖の上でどんな顔をしているのか。知りたいようで知りたくない。  優しい彼を一人で残していくのが、悲しませるのが、××かった。  玉子が亀裂に呑まれかけたその時、卵が大きく震える。玉子の感情を吸い取り満たされた卵は破裂し、二つの光を吐き出した。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加