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ポケットじゃなくて
黄色いジャンプスーツを着て、男は通学路に立っていた。
「ジンジャーブレッドマンだよ。どうぞ」
差し出されたビスケットは、人の形をしていた。僕がとまどっていると、ケンタが横からお菓子をかっさらった。
「ちっさ!」
おや指と人さし指でビスケットの頭と足先をつまんで、僕に見せる。
「こんなの、ひと口じゃん」
「ひとつひとつは小さいけれど、ふしぎなふしぎなビスケット」
男は節回しをつけて口ずさむと、「にっ」と口を左右に広げた。
「ポケットに入れて、上から叩いてごらん」
ケンタの着ているジャンパーの、ポケットを指さした。
「君もどうぞ」
僕の手に焼き菓子が押し付けられる。
「さあさあ、君もポケットに」
中で粉々になったらたいへんだ。ハンカチに包んでから入れた。
「ぽん! とやってごらん」
母の不機嫌そうな顔がちらついたけど、好奇心が勝った。僕は手のひらで「ぽん」と叩き、ケンタはげんこつで「がつん、がつん」と叩いた。
ケンタが驚きの声を上げた。
「叩いても割れない!」
僕はハンカチを開いて、「そっち?」と声を上げた。
「数が増えてる! 僕のはふたつ、ケンタのはみっつになってる」
「ほんとだ! 『ポケットの中には……』って歌のとおりじゃん」
「叩いてみるたびビスケットが増える……増えた、けど」
「オレ、『ふしぎなポケット』が欲しかったんだ」
バター色の服を着た男が、「ちがうちがう」と、口をはさんできた。
「ふしぎなのはビスケットの方だよ。ポケットじゃなくて」
男は自分のポケットからビスケットを取り出し、口に入れた。
「それよりなにより、食べてみて。さくさくふわっ! で、おいしいよ」
「食べれるって? うっそ。オレが力いっぱい叩いても割れないんだぜ……」
ケンタは首をかしげながらも、ビスケットを口に放り込んだ。
「なにこれ、なにこれ! さくっとして、ふわっとして、溶ける」
「でしょでしょ。たっぷりバターがお口で甘くとろけちゃうよね」
僕はハンカチに乗せた焼き菓子を見比べた。ふたつともおんなじ笑顔だった。ほんとにひとつのビスケットがふたつになったんだ。
「君、君。ぜんぶ食べちゃだめだめ。最後のひとつはポケットへ」
ケンタはあわてて言われたとおりにする。男の顔に笑みが広がった。
「君は食べないの? おいしいよ」
僕はけんめいに考えて、あわてて返事をした。
「うちに……持って帰ります。おやつは……姉ちゃんといっしょに食べるので」
「そう、お腹いっぱいなのかな」
男はジンジャーブレッドマンそっくりの笑顔を崩さなかった。
「いっしょにここで食べようぜ」
ケンタの口から、ビスケットのかけらが飛んだ。左右のポケットはもう、ソフトボールの球を押し込んだみたいに丸々とふくれ上がっていた。
それ以上、言い訳を思いつかなくて、僕はただひたすらに首を横に振った。
「君、いいんだよ。家に持って帰って食べなさい」
僕はハンカチをポケットにしまった。
「オレたち、無敵のアイテムを手に入れたんだ」
ケンタは口を開いて笑い声を立てた。男も声を出して笑った。
「うっかりぜんぶ食べないようにね」
「ひとつでも残しとけば、オレ、一生おやつに困らないな」
「そうだな。じゃ、ジンジャーブレッドマンのおじさんはこれで失礼するよ」
男は調子はずれに、「ふしぎなポケット」を口ずさみながら去っていった。
後ろ姿を目で追っていると、横でケンタがくぐもった声を上げた。
「じゃあオレ、こっちだから」
僕は左右を見回した。たしかに、この角を右に曲がれば彼の家だ。
「こんなに歩いてきてたっけ?」
問いかけたけど、ケンタはすでに隣にはいなかった。数メートル先を空色のランドセルが歩み去っていく。
「またあした、学校で」
返事がなかったのは、口の中にビスケットが詰まっていたからに違いない。
「調子に乗って食べすぎるなよ」
晩ごはんいらない、などと口にしたら、ケンタはきっと母親に叱られるだろう。
遠ざかる後ろ姿がランドセル越しに頭の上で手を振った。
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