駅が見える理容室

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 こんなに長い旅をしたのはいつ以来だろう。  東京駅から乗った新幹線を新花巻駅で降りると、空は西から東まで、全面が黒い雲で覆われていた。雪が降るな、と思った。  新花巻で釜石線の釜石行快速列車に乗りかえる。快速列車は停まる駅が少ない。土沢、宮守、遠野と沿線の主要駅をひとつひとつクリアしていくたびに、ふるさとが近づいてくる。僕の中で緊張感が増していく。  快速列車の所要時間は新幹線と同じ三時間なのに、スピードが遅いせいか、乗っている時間が異様に長く感じた。  快速列車の終点である釜石駅に着くと緊張は一層強まって、吐き気を催してきた。  旅は釜石で終わりではない。ここからさらに、三陸鉄道の普通列車に乗りかえなければならないのだ。  三陸鉄道は二両編成で、車内は席がすべてが埋まる程度の混み具合だった。あえて座席に座らずに、運転席の横に立つ。目的の駅に着くまでの十五分間、運転手と同じ目線で車両前方の景色を眺めた。沿線がどのように変わったのかを自分の目で確かめたかったからだ。 「まもなく吉里吉里です」  男性の声の車内放送に促されて乗降口へ移る。列車が止まり、扉が開くと、体を突き刺すような冷気が車内に飛びこんできて、全身がブルっと震えた。吐く息が、ドライアイスから吹き出す煙のように白くなった。  吉里吉里駅に粉雪が舞っていた。釜石駅では降っていなかったのに、たった十五キロメートル北上しただけでこれだけ変わる。片側一面だけの小さなホームは、積もった雪で白く染まっていた。  列車から降りたのは僕ひとりだけだった。  高校時代、毎日のように使った駅なのに、初めて降りたような錯覚にとらわれた。迷子になった子供のように、しばらくホームの上を右往左往した。  そのうちに落ち着きを取り戻し、今度はホームに立ちつくしていると、母さんの顔が頭に浮かんできた。不意に目に涙がたまってきた。  ふるさとイコール母さんという考えが抜けずに、ふるさとを思うだけで憂鬱な気分が抜けなくなってしまう。それなのに、今日はよく帰って来れたものだと思う。きっと、時が僕を少しずつ変えてくれたのかもしれない。  ふるさとに戻ってきたのは、東日本大震災で亡くなった母・利美の葬儀に参列した日以来、九年ぶりだ。  僕は当時、東京にある私立大学に通う大学生だった。昼間は大学へ、夜間には理容師専門学校にも通っていた。  別れがあまりに急すぎたから、その死を受け入れられなかった。母さんの死後、三カ月もの間何もできずに、当時住んでいた都内のアパートに閉じこもっていた。精神的な病気にかかり、心療内科に一年間通った。学校も留年した。立ち直ることができず、ふさぎこむ生活を送っていた。  そんなときに僕を助けてくれたのが、大学の研究室メンバーや一緒に理容師をめざす仲間たちだった。大勢の仲間に支えられながら、どうにか学校を卒業し、都内にある理容室に就職した。  仕事は毎日、目が回るほど忙しかった。二十四歳のときに同僚の女性と結婚もした。仕事や家庭に専念できたおかげで、悲しみを払拭できた。  ふるさとで理容室を営む父さんとは年に一、二回連絡をとっていた。父さんは僕の胸の内を察してくれたのか、吉里吉里に帰って来いとは一度も言わなかった。  妻を突然亡くして、僕よりもつらい思いをしているはずなのに、僕にも僕の弟にも、決して弱音を吐かなかった。  健康が取りえだった父さんに病魔が襲ったのは、今から三カ月ほど前の初冬だった。  強い腹痛が続いたため病院で精密検査を受けたところ、胃ガンが発見されたのだ。弟からの青天のへきれきともいえる連絡に、僕はうろたえた。  見舞いに行きたいと連絡すると、父さんは「わざわざ東京から来るほどのことではない」と拒否した。父さんは自分の考えを決して曲げない頑固な性格だ。何度お願いしても聞く耳を持ってくれなかった。僕は父さんの言うとおり、東京から病気の完治を祈るしかなかった。 『会いたい』  一週間前、父さんから一本のメールが届いた。父さんらしくないたった四つの文字を見て、胸騒ぎを感じた。  弟から、盛岡にある大学医学部付属病院に転院することになったという知らせを受けたのは、その次の日だ。父さんの性格からして、たとえ余命が宣告されたとしても、ふるさとに帰ってこいとは言わないだろう。なのに、なぜ僕を呼ぶのか。どういう心境の変化なのかはわからないけれど、僕が知らない大きな事情があるに違いない――。  父さんのメッセージを無視できなかった。   
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