駅が見える理容室

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    「兄貴っ!」  聞き覚えのある太い声に振り向くと、ホームの真ん中に、弟の典和が笑顔で立っているのが見えた。吉里吉里駅まで自家用車で迎えに行くという連絡を事前にもらっていたのだ。 「元気そうじゃないか、典和!」  久しぶりの再会がうれしくて、身長が百八十センチと、僕よりも十センチ高い典和の体に抱きついてしまった。 「兄貴も元気そうで、なによりだ」  顔を合わせるのは、弟が仙台で結婚式を挙げたとき以来だから三年ぶりだ。 「おまえ、だいぶ太ったんじゃないか」 「そんなことはないよ。細身の兄貴に比べれば太いかもしれないけどな」  学生時代に柔道をやっていた弟は昔から体格が良かった。しばらく見ないうちに輪をかけたように体が横に大きくなった気がする。きっと幸せ太りだろう。  地元の大槌町役場に勤める典和は、僕よりふたつ年下の二十六歳。二歳の男の子を持つ若いパパだ。僕は弟より結婚が早かったが、子供はまだいない。 「どうしたんだ。目が真っ赤だぞ」 「久々におまえに会ったから、何だか、こみあげるものがあってね」 「ふーん。涙もろいところは兄貴らしいな」  母さんを思いだして泣いていたなんて、恥ずかしくて言えない。  築堤の上にあるホームから、十五段ほどの幅の狭い階段を下りて駅前広場に向かうと、この駅の名物だった白い木造の駅舎が跡形もなく消えていた。 「津波は駅まで到達しなかったはずだけど」  僕は駅舎がかつて建っていた空き地の上で呆然と立ち尽くした。吉里吉里駅は海岸から一キロメートル離れた丘陵地にあるから、震災の影響を受けなかったと聞いていた。 「津波が原因じゃない。震災が起きた翌年に、建物の老朽化のため解体された。新たに建てる予定はないそうだ」  吉里吉里駅は、東日本大震災が起きた二〇一一年から昨年三月までの八年間、JR山田線が不通になった影響で営業を止めていた。その間の解体だったらしい。 「そうか。残念だ……」  高校時代、初めてできたカノジョと毎日のように駅舎内のベンチで語りあっていた。青春時代の一ページを飾るほどの、思い出の場所だったのに。  駅舎を失って、片面ホームだけのさびしい駅になってしまった。  失意のまま、駅前に停まっていたワンボックスカーに足早で乗りこむ。弟の車だ。助手席に座ると、僕はかじかんだ両手に温かい息をはあっーと吹きかけた。 「さすがに寒いな。東京の冬とは比べものにならない」 「今年の三陸は暖冬だと言われているんだぜ。そんなことを言うようじゃ、兄貴はもう完全に東京の人間だよな」  東京に十年住んでいる間に、ふるさとの厳しい寒さを忘れてしまったのか。  車は細い道を百メートル走り、国道45号線に入る。海の方向へ一キロほど進むと、津波の被害が最もひどかった地域にたどり着く。  幅の広い二車線の道路の沿線は空き地が目立つものの、ポツンポツンと真新しい住宅が建っていた。震災の直後は、がれきの山だったのに。 「吉里吉里の町はみちがえるほど復興したよ。町の皆さんもとても明るくなったし」  町役場の職員らしい典和の言葉が胸に響く。僕がふるさとを離れている間に、この街は大きく変わっていたのだ。僕は窓の外の景色を無言で眺めていた。  実家が建っていた場所の前を通り過ぎる。十八年間暮らした家は跡形もなく、今も空き地のままだった。  地震の直後、人口が二千人ほどの小さな漁村だった吉里吉里地区は大きな津波に襲われた。震災が僕から奪っていったのは母さんだけではない。僕の実家や両親の仕事場だった理容室は津波に飲みこまれ、家族の大切な物や僕の幼少からの思い出の品はすべて海の中へと消えた。母さんの形見といえる品物は何ひとつ残っていない。  震災の一週間後に、近くの海岸で母さんの遺体が見つかったのが僕たち家族にとって不幸中の幸いだった。遺体の損傷が激しくて、まともに顔を見られるものではなかったけれど……。 「病院に行く前に新しい実家に寄るか?」 「いや、病院に直行しよう。父さんの様子を真っ先に見たいから」   しばらくの間仮設住宅の一部屋を借りて仮営業していたが、震災の三年後、父さんは吉里吉里駅の近くに新しい実家と美容室を建てた。僕はそれらをまだ、一度も見ていない。正直なところ、興味がないから、見たいとは思わない。 「父さんの病状はどうなんだ?」 「車の中で話すよりも、病院で直接、兄貴の目で確かめてもらった方が早い」  元気だと、ひとことだけ言ってくれれば安心なのに。それが言えないほどの重病なのか。  県立病院は大槌町の市街地の端っこに建っていた。周りには真新しい住宅が目立つ。四階建ての白い建物の入口を進むと、生暖かい空気とともに消毒液のにおいが漂ってきた。気分が悪くなる。僕は病院のにおいや雰囲気が苦手だ。  階段で三階に向かう。病棟の廊下は照明がついているのに薄暗かった。典和の先導で廊下をしばらく歩くと、奥の病室から、ガハハハという特徴のある笑い声が聞こえてきた。あれは父さんの声だ。  入口の表札に「及川金三郎」という父の名前だけが掲げられた病室に、遠慮気味に入る。パジャマ姿でベッドから上半身を起こし、看護師と楽しそうに話しこむ父さんの姿が目に入った。 「久しぶり、父さん!」  声をかけると、父さんは朗らかな笑顔を僕の方へ向けた。 「お、帰って来だな。わが息子!」  いつの間にか頭は白髪だらけで、老人のような深いしわが顔のあちこちにきざまれていた。母さんが亡くなってからの九年もの間に、僕が想像できないくらいの苦労を重ねたに違いない。それ以上に驚いたのが、頬がこけてやせ細った姿だった。青白い顔は誰が見ても病人そのものだ。右腕にささった点滴の針が痛々しい。オレンジ色の透明な液体を長い管を通して父さんの体に送りこんでいた。 「雅之。おめえ、しばらぐ見ねえうちにますますイケメンになりやがったな!」 「そんなわけがないだろ」  くだらない冗談に苦笑いしてしまう。相変わらずだな、父さん。 「そったなこどよりも、俺のもどによく戻って来てくれだな。ちょっとそごさ座れよ」  言われるままベッドの横にあるパイプイスに座り、父さんと向きあう。 「いつもの元気な父さんで安心したよ」 「まあ、見がげだけだ」 「見かけ?」 「俺は間もなぐ、利美のもどに行ぐんだがらな」  笑いながらそんなことを言う。 「何言っているんだよ」  父さんの、態度と言葉のギャップに戸惑う。  これから大きな病院に転院する父さんに、どういう励ましの言葉をかければいいのだろう。さりげない会話が暴言になりそうで怖かった。五十三歳の若さでガンの宣告を受けて、不安を感じているにちがいないから。 「必ず治るから、希望を捨てるなよな」  何かを返さなければいけないと思い、言葉を選んで伝えた。  そのとき――。 「転院前に、おめえにどうしても伝えてえこどがあってな」  僕を見上げて唐突に口を開いた。 「もしかして、後継ぎの話か?」  父さんは今自分が経営している理容室を、僕に継いでほしいという考えがあるようだ。父さんから直接聞いたわけではなく、親父がそんなことを言っていたと、典和から耳にしただけなんだけど。  父さんの要望に応えるつもりはなかった。  昨年、僕は店長に昇格し、会社から店の運営を任されている。妻も同じ会社の別店舗で美容師として働いているのだ。東京を離れられないのが理由のひとつだけど、それがすべてではない。ひとりで店を経営する父さんを助けてあげたい気持ちがある一方で、どうしても思いきれない事情が他にあった。 「違う」  父さんは首を横に振り、つぶやくように言った。後継ぎの話ではないのか。 「じゃあ、伝えたいことって何だよ」  僕は父さんの目を真剣な表情で凝視した。 「明日、盛岡さ行ぐ前さ話す」  「今、話してくれよ」  明日と言われると、よけいに早く聞きたくなる。 「こごでは無理なんだ。とにがぐ、明日にさせでぐれ」  父さんは僕から視線をはずした。これ以上詰め寄っても無理だろう。  従うしかない。僕は下を向いて深くため息をついた。  何を伝えたいのだろう。後継ぎの話しか思い浮かばない。転院する前に僕の顔を見たかったから? いや、父の性格からしてそれはない。 「雅之、すまねえ」 「いいよ。わかったから、気にするなよ」  父さんは二度三度と頭を下げた。  これほどまでに平身低頭な父さんを見たのは初めてだ。いったい、今日はどうしたんだ。自分が失敗しても、これまで家族に謝ったり頭を下げたりしたことはなかった。まるで優しく穏やかな他人の中年男性と接しているようだ。年齢を重ねて、人間が丸くなったのかもしれない。 「すまねえ」  何度も謝られて、うしろめたい気持ちになってしまう。父さんの顔を見ているのがつらくなって、病室から逃げ出してしまおうかと思ったくらいに。  そのうちに会話が途絶えて、病室がシーンと静まりかえる。病棟の廊下を歩く人の足音や話し声が耳に入ってくる。  僕は持っていたセカンドバッグからお茶のペットボトルを出して、口に含んだ。  典和が「トイレ」と小さな声で言って病室を出ていこうとしたとき――。 「そういえばおめえ、駅が見える理容室さ、まだ行ったごどがねえよな」  沈黙を破るように父さんが口を開き、僕の目を見た。 「駅が見える……」  父さんは自分が建てた店のことを『駅が見える理容室』と口癖のように言うのだ。愛情をこめて。 「俺の話を聞く前に、店を見でぐれ。たのむがら」  苦しそうにゴホゴホと咳払いをすると、父さんは疲れたような表情でベッドに横になった。典和が父さんの体に毛布を掛ける。  今回は実家に一泊するつもりだ。実家の隣に建つ理容室は嫌でも見ることになるから、別に慌てる必要はないのだけれど。 「兄貴。今から一緒に店に行こう。退院前にいろいろと準備があるんだ。兄貴に手伝ってもらいたいこともあるし」  父さんを安心させるには、願いごとをひとつでも多く聞いてあげるのがいちばんだ。 「わかったよ、父さん」  僕は小さくうなずくと、典和と一緒に病室を出た。父さんはベッドに横になったまま、目をつむったままだった。
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