駅が見える理容室

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「親父の後を継ぐのは兄貴しかいないと俺は思っている」  典和が運転席から静かな口調で言った。  車は今、国道45号線を走っている。右側は青い海、左側には緑の木々が広がっている。道路は空いていて、時折、車がすれ違うだけだ。  ふたりきりの空間で、いきなりそんなことを言われるとは思っていなかった。戸惑いながらも、僕は車の助手席から、運転に集中する弟の横顔を見つめた。 「さっき、父さんの前でははっきりと言わなかったけど、僕は後を継ぐつもりはない」  何のわだかまりもなく、はっきりと言ってやった。  それが気に食わなかったのだろう。チラッと視線を向け、僕をにらむようなしぐさをした。 「俺には、兄貴の考えが理解できない」 「どういう意味だ」 「兄貴は高校生の頃、ふるさとを良くするために命をかけるって豪語していたじゃないか。それなのに、いざ東京で暮らすようになったら、まるで嫌いな物を避けるようにこっちに帰って来やしない。兄貴は家族やふるさとを愛しているのか?」  そんなくだらない質問するな、と典和を怒鳴りつけてやろうと思ったけれど、今、そんなことをしたら、それこそ火に油を注ぐようなものだ。 「愛しているに決まってるだろ」 「だったら、なぜふるさとに帰ってこないんだ。両親の後を継ぐために理容師の資格を取ったんだろ?」  確かに弟の言うとおりだ。だけど、それは母さんが生きていた場合の話にすぎない。母さんがいない今はもう、そんな気がなかった。たとえ父さんが病気であろうとも。  僕はそれを言葉にすることができなかった。  典和は「ふざけんなよ」と吐き捨てた。リアクションのない僕の態度にキレたのか、車のアクセルを踏みこみ、スピードを上げた。スピードメーターの数字が百キロをさす。僕らが学生の頃だったら、取っ組み合いのケンカになってもおかしくない状態だ。お互いが大人になった今はそんなことはしないけれど、車の中に重苦しい空気が流れる。ふたりきりで話したいことが山ほどあるのだが、弟のしかめっ面を見ているうちに、そんな気がなくなってしまった。  病院を出て五分ほど走ると、左手の方向に線路が見えてきた。線路としばらく並走する。国道を左折し、踏切で単線の線路を渡り、車は長い坂道を駆け上がっていく。  狭い道の先に、壁をクリーム色に塗った小さな建物が見えた。 「あれがウチの店だ」  典和は車を店の目の前に停めた。  車を降り、建物とその周辺を眺めた瞬間、僕はポカンとして立ちつくしてしまった。  小高い丘の上に建つ赤い三角屋根の建造物はドイツ風というか、メルヘンチックで、グリム童話の世界から飛び出してきたみたいだったから。 「父さんに、こんなメルヘンチックな趣味があったか?」 「ないな」  それに加えて、ここは駅から近いとはいえ人里から離れた丘の上で、周囲に民家は少ない。商売をするには適さない場所だと思ったのだ。 「どうしてこんな郊外を選んだのかな。街の中に建てた方が店は繁盛するのに」 「わからない。親父は、次男の俺にも真相を語ってくれないからな」  南の方角、五十メートルほど先の眼下に三陸鉄道の線路がまっすぐに伸び、その途中に吉里吉里駅のホームを確認できた。『駅が見える理容室』と父さんが名づけたことに納得だ。東の方向のはるかかなたに、弓のように曲がった吉里吉里海岸が広がっていて、青い波が白い砂浜に押し寄せている。僕だったら『駅と砂浜が見える理容室』と命名するだろう。  父さんの「伝えたいこと」とやらがまた気になりだした。この店にそのヒントが隠されているかもしれない。  僕はもう一度、店の外観をまじまじと見渡した。やはりドイツ風の建物には違和感がある。それとも、数年間会わないうちに、父さんの趣味が変わったのか。いや、昔かたぎの頑固親父に限ってそんなこと、ありえないだろう。  謎だ――。 「店の中に入ろうか」  典和に促されて、僕は小首をかしげながらガラス張りの入口ドアを開けた。  お客さんが座る理容イスが二台と小さな待合室があるだけの狭い店内は、放課後の教室のように薄暗かった。  典和が理容室の端にある照明のスイッチをオンにすると、コケのような深い緑色に塗られた内壁が光に照らされて引き立った。  室内は別段変わった造りではない。新しいだけで至って普通だ。外観の設計に限って、第三者の意見を入れたのかもしれない。  理容イスを見つめていると、お客さんと雑談をしながら髪を切る父さんの姿が目に浮かんだ。しばらくして、今度は母さんの姿も現れた。父さんは母さんに笑顔で話しかける。津波に流された店で働いていたふたりの姿を子供の頃から見ていた。ふたりで本当に楽しそうに仕事をしていた。  震災後は状況が大きく変わってしまった。店を建ててからの五年もの間、ひとりで店を切り盛りしてきた。寂しくなかったのか。つらくはなかったのか……。  僕がふるさとに帰って一緒に生活をしていれば、父さんにそんな思いをさせずに済んだかもしれない。自分は親不孝だったのではないかと、大きな疑心暗鬼に襲われた。だけど、僕にはふるさとに戻る気力がなかった。どうしようもないことだったのだ。 「いい機会だから、兄貴に直接、言っておきたいことがある」  典和の大きな声で、はっと我に返る。  険しい表情で僕の目の前に仁王立ちになった。 「な、なんだよ」  体の大きな典和に強い視線を向けられて恐怖を感じ、声が震えた。  弟は顔が真っ赤だった。 「親父は、町の人のために尽くすと言ってこの理容室を建てた。自分の妻を亡くした悲しみにめげずに毎日、がんばっているんだ」 「そんなことはわかってる」 「わかってないだろ!」  弟の目に涙が浮かんでいた。 「だったら兄貴はなぜ親父を助けないんだ。なぜ町を助けないんだ!」 「それは――」 「家族を亡くしたり家を失ったりしたのは、俺たち家族だけじゃない。吉里吉里の町にたくさんいる。みんな、悲しみに負けずに、生まれ育った町の復興のためにがんばっているんた。それなのに兄貴は――都会に逃げているだけだろ」  衝撃だった。弟に、そんなふうに思われていたことに。涙声で話す弟に反論する度胸が僕にはなかった。母さんを亡くしてから、東京に逃げていたのは事実だから。  だけど誤解されるのは本意ではない。 「違うんだ、典和」  小声で言葉を絞りだした。だが遅かった。  涙を拭いながら、典和は扉を開けて店の外に飛びだしていった。  追いかけることができず、僕は店の中で立ち尽くしていた。
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