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穣一が真壁に家庭教師を頼んだ?
それなら何故、あんなにも、忌々しそうな声で。
「……あの男、なんて呼ぶの?」
真壁の名前を呼ぶことすら疎ましいと言いたげな穣一の露骨な嫌悪は、どこから来てるの?唐突に重なったふたつの影に、記憶の最も根深い部分を無遠慮に掘り起こされるような、これまで必死に閉ざしてきた過去を抉り取られるような、そんな不快感があった。
ふと、花の香りが鼻先を掠めた。
デスクの上に飾られた、赤いカーネーション。
鉢植えのその花は寒い冬にも逞しく花を咲かせている。花は生き物だからちゃんと大切に育ててあげなくちゃいけないのだと、優しく教えてくれた人は──もういない。
──花はね、枯れてもちゃんと根に還るのよ
──だから悲しくなんてないわ
頼りない手で、私を抱き締めてくれる。
その手が傷だらけだったことを、今も覚えてる。
けれどそのぬくもりに包まれている間だけ、私は心から安らぐことが出来た。柔らかな歌声が子守唄を口遊む。どんな時も甘くて優しい花の香りがするひとだった。
──杏樹、ごめんね
──あなたをひとりにして、ほんとうにごめんね
自分が泣いていることに、目尻から涙がこぼれたあとで気付いた。私は咄嗟にデスクの上にあったリモコンを取り上げて、オフィスを囲む壁を曇りガラスに変えた。
喉の奥から震えた息が漏れた。
どうか、どうか今はまだ、誰も私を暴かないで。
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