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「杏樹、頼むよ、いいだろ?」
形の良い耳の淵にそっと唇を這わせた。
濡れた杏樹の瞳が、恨めしげに俺を睨みつけた。
それはふたりだけの間に存在する不文律のようなもので、俺の手を振り解いた杏樹の手を今度は引き留めなかった。そのまま会議室を出ていく杏樹とは反対方向に別れて、地下駐車場に降りた俺は愛車に乗り込む。
国内メーカーが扱っている高級ブランドラインの車は、去年の秋に昇格した時、なんとなく買って乗り換えたものだ。低騒音なハイブリッド車は乗り心地が良くて気に入っている。
俺は車のエンジンを掛けながらエアコンの風量を調節し、しかしシフトレバーはニュートラルに入れたまま動かす気はない。薄暗い地下駐車場は奇妙なほどしんと静まり返っていて、見渡す限り無機質な灰色だ。
そこに、勝気なヒールの足音が響いた。
助手席のドアがどこか不機嫌そうに開けられる。
「ほんといい加減にしてよね、あんた」
「とか言って杏樹だってもうその気なくせにー」
「別に、飢えた飼い犬に強請られて放置するのも夢見が悪かっただけよ」
飢えた飼い犬とはまさに言い得て妙だ。
シートに深く沈んだ杏樹がゆったりと脚を組む。
俺はそれを横目にようやくシフトレバーをドライブに入れ、緩やかにアクセルを踏み込んだ。車は街に滑り出し、光化学スモッグにくすんだ夜空の下を進む。
「で、世界一可愛い甘えた顔とやらはどこ?」
「今目の前にあるじゃん」
俺の軽口をつまらなさそうに流し見る。
それでも杏樹は、根が残酷になり切れない女だ。
家に着くなり抱き合いながらベッドの上に雪崩れ込んだ俺たちは、そのまま何度も、口付けを重ねた。性急に杏樹の肌をなぞりながら、容易に濡れはじめた泉にずぷりと己の猛りを埋める。
切なげに体を震わせながら甘い鳴き声を上げる杏樹の奥深くまで暴きながら、甘い花の香りに酔いしれた。杏樹からはいつも凛と涼やかな花の香りがする。その香りの中に埋もれると、俺はいつも制御が利かない。
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