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『今晩、体貸してくんない?』
事務所の一角にある資料室で過去の判例を探していた私の背中に、そんな声がぶつかった。珍しくどこか不機嫌な空気を滲ませた千隼が出入り口の扉にもたれるようにして立っていた。
『…今夜?』
『ああ、なんか予定あんの?』
『判例集めと資料作成が終わりそうもないわね』
『なら俺が手伝うわ、それ』
冷たい空気を纏った千隼が私を見下ろした。
仕事の時間を侵食されることのない都合の良い関係を保ってきた私達は、こんな風に、仕事よりも夜の逢瀬を優先させたことなどない。それは暗黙の了解とも言えるものだったし、どちらにもそこまでセックスに割く情熱がなかっただけと言えるものでもあった。
なのに今夜は違うらしい。
焦げ茶色の澄んだ瞳に私が映っている。
『…頼む』
大路千隼は優秀な男だった。
悲しいかな、誰かに頼る必要もないくらい。
そんな男が今晩抱かせろと頼んでくるなんて尋常じゃない。それも、私なんかに。普段ヘラヘラとしてばかりの容貌から表情が消え失せると、その顔立ちの端正さが際立つのだと私は前から知っている。何故ならベッドの中で千隼が見せるのはいつだって、どこか酷薄で無機質な、その美しい顔だったから。
『わかった』
ここまで言われて断る理由もない。
けれど私は、今夜が来るのが堪らなく嫌だった。
最低限終わらせなければならない業務だけを片付けてから退勤を切った私は、事務所の前の通りでタクシーを捕まえ、そのまま千隼に指定されたシティホテルに向かった。
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