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「杏樹、この判例でいいんだろ?」
昨夜、無理を押して仕事を切り上げた代償を早朝出勤で支払っている私と千隼は、まだ誰もいないオフィスで過去の判例をひっくり返す。
南向きのオフィスの窓にはまだ朝日が差し込む兆しもない。睦月の太陽は顔を出すのが遅く、眠るのが早い。静かなオフィスにコーヒーの香りだけが漂っている。
「うわ、どこから見つけ出したの?」
「Seep社の過去事例、ここがほぼ始祖だろ」
「こんなご時世に取締役がセクハラで告発されるなんて馬鹿じゃないの?」
「おっさんってのはみんな想像力がねえんだよ」
「ブタ箱にぶち込まれりゃいいのよ」
何で私がこんなくだらない案件、と文句を言ったところでクライアントの意向は絶対だ。弁護士にとっての顧客は神にも等しく、神に背くことなど許されない。
「しかも絶対黒じゃない、こんなの」
「謝罪会見っすか?」
「なわけないでしょ、揉み消すのよ、隠蔽」
「相変わらずクソだねえ」
大企業ってのは、と千隼が気怠げに呟く。
日本有数の大手法律事務所のクライアントは揃いも揃って巨大な企業ばかりだ。そしてそんな大企業が弁護士に依頼する案件なんてものは、当然闇深いものばかりだった。
「でも助かったわ、ありがとう」
「昨日抱いてもらった礼なんでいいっすよ」
「私が抱いたんだっけね?」
「あんまり男前なんできゅんとしちゃった」
「馬鹿じゃないの」
横目で一瞬ちらりと睨んで、すぐ目を逸らした。
会議までに契約書を作成しなくては。
手元に置いたペーパーカップのコーヒーを持ち上げた。熱いカフェラテはコンビニのものだけど普通に美味しい。でも手軽さと利便性の代償に希少価値は失われてしまった。
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