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代表室を出て自分のオフィスに戻る。
するとそこには、珍しい来客が待ち構えていた。
「どこに行ってたんだ、杏樹」
オフィスに置かれた一人掛け用のチェアに座って私を待っていたのは、つい数分前まで話の渦中にあった人物──花栗穣一だ。穣一は感情というものをすべて捨てたように無機質な瞳で、どこか億劫そうに私を見上げた。
「…代表に呼び出されて、少し話を」
「代表に?なんの話だ」
「私が先日参加した勉強会の内容を共有してくれないかと仰られたので、ほら、代表は近頃医療業界のクライアントをほとんど持たれていなかったので、その件で」
嘘が淀みなく舌先から滑り落ちた。
私の嘘に、穣一はやはり興味もなさそうに頷く。
こんな風に一対一で父親と話をするのはいつぶりだろう?考えれば考えるほど記憶にない。親子としての会話というものを、私たちは一度も交わしたことがない。
「そうか、代表の迷惑にならんようにしろ」
「わかりました。それで何か?」
「ああ、お前、あの家庭教師だった男──真壁とはまだ会ってるのか?」
穣一の問いに時が止まるようだった。
どうして真壁と会ってるかなんて尋ねてくるの?
私が渡米してから穣一は一度だって連絡を寄越すこともなかった。でもそうだ、真壁が家庭教師として初めて家を訪れた時──『花栗弁護士からの紹介で』と言っていた。
「…あの人のこと、知ってるの?」
「ああ、元々俺があの男に家庭教師を依頼した」
「なら……いえ、今でも時々会いますが」
「あまり気を許しすぎるなよ」
俺たちの仕事で親しい人間は作るな、と釘を刺すように告げて、すぐに椅子から腰を上げた。質の良い背広を着た背中が淡々とした足取りで部屋を出てゆく。全身から血の気が引いて、上手く息が出来なかった。
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