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Overture.
窓辺に花が咲いていた。
胡散臭いほどに美しい男が私に微笑みかける。
柔らかなオールドロックの流れる店内には優しいコーヒーの香りが漂っていた。窓ガラスから注がれる日差しは春の甘ったるい陽気で、だから私はついここが地獄のはじまりであることを忘れそうになってしまう。
閉ざされた世界に薄らと差し込む光の先に見たものと、今目の前にあるものは重なるのだろうか?どこかで怯えながら、それでも私は、隠し持った透明なナイフに指を掛ける。
自分の後ろ手に握り締めたそれがエゴでしかないと知りながら、でも捨てられずに。ゆったりと唇の端を擡げて微笑み返す。どうかあなたが誰よりも残酷な人でありますようにと、身勝手なことを願いながら。
『連絡先をお伺いしても?』
『ええ、もちろん、私も心強いです』
『それにしても今日の教官の話は長かったな』
上滑りしてゆくような会話の中にそっと甘い蜜を含ませる。貴方がその蜜を吸いに寄って来てくれればいいけど、残念ながらファルコンは肉食の鳥だから、花の蜜なんかじゃ腹の足しにもならないかもしれない。
『改めて見ても華やかな名前ですよね』
『花だか栗だか杏だか樹だか』
『はは、考えたら全部の漢字が植物関連なのか』
『無節操な名前ですよ、ほんとに』
『それなら俺は随分と強欲そうな名前ですよ』
『大きな路に千の隼?』
『一帯の獲物を狩り尽くす気みたいでしょ』
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた男がゆったりとした所作でコーヒーカップを口に運ぶ。男は頬杖を突きながら、長い脚をテーブルの下で窮屈そうに組み替えた。
──例えば、一度この脳を融かして。
真っさらなものに作り替えてしまったとしたら。
それですべての悲しみが癒えるのなら、甘美な誘惑に流されることは人としての道をはずれたことなのだろうか?
自分の進む道が破滅へと繋がっていることを知りながら、そこに救済を望んでいる。酷く矛盾した思考を強制的にショートさせられたら、こんな結末は訪れなかったかもしれない。
それでも私は今も不完全なまま、地獄へと続く階段を下り続けている。奈落の底まで怪物を引きずりおろすことが出来たとして、決して誰も報われないと知っているのに、私は抜いた刀を納める鞘を持たない。
『仲良くなれそうですね、私たち』
──美しい花の根には、凶悪な毒が宿っている。
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