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第二話 雑談
翌日、僕はいつもより一時間も早くに学校に着いた。昨日の彼女、水無里奈のことが気になったからだ。昨夜は正直あまり眠れなかった。あの時は自殺を止めることに必至で、言葉を選ぶ余裕がなかった。自分の言った何かの一言が彼女を傷つけてはいないかとか、屋上から走り去った彼女を追いかけるべきだったのではないかとか、家に帰ってからもう一度死のうとしているのではないかとか、そんな想像ばかりしてしまった。そのまま寝付けずに朝日が昇り、じっとしていても悪い想像ばかり働いてしまうため、取り敢えず学校に来たのだ。
だが、学校に早く来ても、特にやれることはなかった。席に座って勉強をしようとしても彼女のことが頭をよぎる。教室の扉が開くたびに水無さんかもしれないと扉の方を向いてしまう。それを何度も何度も繰り返すうちに予鈴が鳴った。教室の席は埋まっている。水無里奈の席を除いて。
いつもみたいにただ学校に来てないだけならまだいい。もし、もう帰らぬ人となってしまっていたとしたら……。そして僕の言葉がそれのきっかけになってしまっていたとしたら……。
うなだれていた僕は扉の開く音を聞いた。先生が来たのかと顔を上げる。前の扉は閉じたままだった。素早く後ろの扉を確認するとそこに水無里奈は立っていた。彼女は静かに自分の席へと向かった。
「おはよう」
僕の席の傍を通る彼女に声をかけた。
「……おはよう」
その声は小さかったが、確かに僕の耳に届いた。
「うん、おはよう!!」
彼女は僕を一瞥すると、早足で自分の席へと向かった。
休み時間になった。僕は水無さんの席に行き、水無さんに話かけた。読んだ漫画や小説の話、昨日のテレビの話とかなんてことないどうでもいいことを話した。水無さんは最低限の返事しかしなかったけれど、席を立たずに聞いてくれた。
次の休み時間も始まったと同時に水無さんの席に行った。今度も同じようなくだらない話をした。すぐにチャイムが鳴ったので、「後でね」と言って自分の席に戻る。それを何度も繰り返した。
できれば放課後も一緒に帰りたかったけれど、彼女は誰よりも早く教室を出て行くので、それは叶わなかった。僕は「また明日」と言うことだけしかできなかった。
そんな日がしばらく続いたある日のこと。僕は好きな漫画の話をした。昨日アニメ化が発表されたことを興奮気味に話した。今朝、同じ話を友達に話したが、反応はいささか冷めたものだった。まあ、特段趣味が合っているわけでもないから予想はしていたが、ちょっと寂しかった。この興奮を誰かと共有したかった。かと言って、水無さんが良い反応をしてくれるわけでもないんだけど……。
「ねえ」
水無さんの初めての反応に少し驚いた。
「なに?」
「その漫画ってどのくらいの長さなの?」
その言葉を聞いた僕の表情は間違いなく喜色満面だったと思う。僕の好きな漫画に興味を持ってくれたことも嬉しかったが、それ以上に自分から話しかけてくれたことが一番嬉しかった。少し、心を開いてくれたのかもしれない。
「えっとね、この前最新十三巻が出たところ」
嬉しさのあまり早口になってしまっていることが自分でもわかった。
「そうなんだ」
「良かったら、読んでみてよ! あ、そうだ。全巻持ってるから貸すよ!! 明日学校に持ってくるね! とりあえずお試しも兼ねて三巻まで持ってこようか?」
気が付くと僕が一方的に話を進めていた。水無さんはぽかんとしている。
「ああ、ごめん! なんか勝手に話進めちゃって。もちろん、水無さんが嫌じゃなければの話で……」
「ふふっ」
水無さんはクスクスと笑っていた。肩を小刻みに震わせながら、口に手をあてて笑っていた。水無さんの笑った顔を初めて見た。
「ありがとう。じゃあ、お願いしてもいい……?」
僕は即答した。他に選択肢なんてなかった。
「うん! 任せて!」
その日、僕は紙袋に入れた漫画の九巻から最新の十三巻を通学鞄に忍ばせて教室に入った。いつも三巻ずつだったけど、残りが四巻だけだったから一気に持ってきてしまった。ちょうどこの九巻から現在連載中の盛り上がっている新編に突入するところだから水無さんも更に楽しめるに違いない。来月の8月に最新刊が発売されるから、読んだらすぐに貸そう。
そんなことを考えながら席に着いた。しばらくすると水無さんも教室に入ってきた。最近は教室に水無さんが入ってきても教室がざわつくことがなくなった。いまでも時々休むことはあるけど、ほとんど学校に来ているから。黒板上の時計を見ると、まだ朝のホームルームまで五分以上の時間がある。僕は紙袋を片手に水無さんに声をかけた。
「おはよう。これ例の漫画」
「おはよう。これ、読んだやつ」
水無さんはピンク色の可愛らしい紙袋を鞄から出した。僕はそれを受け取り、自分が持ってきた紙袋を渡す。
「ありがとう」
「どう? 面白かった?」
「うん。面白かったよ。八巻のラストシーンなんて特に」
「わかる。クライマックスだよね。あのシーンは燃えるよね。何度も見ちゃうよ」
それからひとしきり感想を言い合った。まだまだ言いたいことがあったのに、予鈴によって阻まれてしまった。僕が席に戻ろうとすると、呼び止められた。
「あのさ、花木君」
「ん? なに?」
「あのさ、今回ちょっと返すの遅くなっちゃいそうなんだけどいい?」
「ああ、それは全然いいけど、どうしたの?」
「いや、期末テストが近いから……。私しばらく学校に来てなかったから勉強に全然ついて行けてなくて……。ごめんね」
そうだった。夏休み前の浮足立った学生たちに降りかかる試練、期末テストがもうすぐだ。
「いいよ、全然。勉強は大切だもんね」
確かに、そうだった。最近は水無さんも授業中に当てられることがでてきたが、そのたび彼女は消え入りそうな、申し訳なさそうな声で「わかりません」と言うのだった。正直に言うと残念な気持ちはあるが、勉強はしょうがない。学生の本分は勉強なのだ。漫画の話なんて、テストが終わった後にいつでも……、いや駄目だ、できない。テストが終わるとそのまますぐに夏休みに突入してしまう。そうなると、話すどころか会うことすらままならなくなってしまう。
僕の頭にある提案が浮かんだ。が、それを口にすることはできなかった。きっとそれは口にしようとした時に先生が教室に入ってきたからだ。きっとそうだ。
気づいたら帰りのホームルームも終わっていた。あれから何度も水無さんと話した。いつも通りの話はいつも通りにできるのに、頭に浮かんだ提案は全然口にできなかった。喉につっかえてしまう。頭の片隅にその提案がずっとあって、今日した話もほとんど上の空だった。
「じゃあね」
水無さんはいつも通りにに素早く荷物をまとめて教室から出て行こうとする。
「うん、また明日」
僕もいつも通り片手をあげて挨拶をする。水無さんは僕に背を向けて教室から出て行こうとする。気づいたら、僕はあげた片手で水無さんの手を掴んでいた。
「えっ、なに?」
水無さんが少し怯えたように声色で言う。
「いや、えっと、ごめん……、なんでも……」
いや、なんでもないわけがない。
「あのさ、もし良かったらなんだけどさ……」
僕の声色もいつもとは違っていた。
「一緒にさ、勉強会しない?」
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