第三話 勉強会

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第三話 勉強会

 日曜日の午後、僕は町の図書館の扉をくぐった。 「涼しい~」  まだ七月とはいえ、昼過ぎの屋外は驚異的な暑さを誇っていた。これから八月になり、さらに暑くなると思うと流石に嫌になる。扉が開いた瞬間クーラーによって十分に冷やされた空気に僕は包み込まれた。じんわりとかいた汗が引いていく感じがする。  最後に図書館に来たのはいつだっただろうか。お母さんに手を引かれて絵本を借りに来ていたけど、多分それ以来か……? こんなに涼しいなら普段から来ようかな……。見慣れない図書館の館内を見回した。 「あれ?」  新刊コーナーで本を手に取って、熱心に眺めている人がいた。水無さんだ。 「早いね、待った?」 「ううん、私が早く来すぎただけだから」  そう言って彼女は本を棚に戻す。  僕が今日図書館に来た理由、それはずばり水無さんと勉強会をするためだ。平日は家の手伝いがあるらしく、時間が取れないため休日の日曜日になったのだ。男たるもの彼女より早く来て待っておくべき、と思って集合時間の十五分前に来たのだが、まさか水無さんが先にいるとは。うん、今度は三十分前に来よう。というか、彼女って! 僕はただ勉強会に来ただけだ!! 「じゃあ、行こうか」  それから僕たち二人は自習室に入って、並んで座った。僕は勉強道具を広げながら、水無さんに小声で言う。 「わからないところがあったら、いつでも言ってね」  彼女は小さく頷くと、ノートを広げて教科書に目を落とした。それを見届けてから僕も教科書に目を落とす。が、すぐに隣が気になってちらりと彼女を盗み見た。というか、私服姿の水無さんは初めて見た。薄手の長袖に長ズボン。寒がりなのだろうか、それとも冷え性?   そんなことはどうでもいい。なんというか、新鮮だ。いつもと違う。それに改めて見てみると……。 「なに?」  彼女が急にこちらを向いた。どうやら視線に気づいたらしい。 「なんでもない」  と言いながら僕は教科書に目を向けた。水無さんは不思議そうな顔をしてしばらくこちらを見ていたが、ほどなくして再び教科書に集中し始めた。僕はできるだけ早くシャープペンを動かして問題を解いた。静かな自習室で一際うるさい僕の心拍音をかき消すために。  結局、予定範囲の半分も終わらなかった。理由は明白。ずっと水無さんが気になって勉強どころではなかったのだ。家に帰ったら頑張らないと。 「今日はありがとね。おかげでだいぶ分かってきたかもしれない」 「いやいや、教えることで自分の理解も深まったから、こちらこそありがとうだよ」  図書館の外に出る。夕方とはいえ夏。むっとした空気に包まれる。 「じゃあ、私はこっちだから。じゃあね、今日はありがとうね」  僕と水無さんの家の方角を真逆。一緒に帰ることはできない。 「あ、あの!」  歩を進める水無さんを呼び止めた。言うことも決めないまま。 「あの、えっと……、来週。来週もやらない?」  テストは木曜と金曜。土日を挟んで月曜と火曜にもあったはずだ。 「えっ」 「いや、ごめん。嫌だったら全然……」 「いいの?」  水無さんは僕の目の前に来てそう言った。 「だって、私いっぱい質問しちゃって……全然勉強できなかったでしょ?」 「さっきも言ったけど、教えることで自分の理解も深まることにもなるから大丈夫だよ。もっと質問してほしいくらいだよ」 「ほんと? うれしい」  水無さんは笑ってくれた。 「来週も図書館に来れるようにお母さん説得するね。」  そう言って、水無さんは駆けて行った。僕も自分の帰り道を歩き始めた。ふと後ろを振り向くと水無さんも振り返っていた。彼女はにこりと笑うと、小さく手を振った。僕は大きく手を振った。  夕陽が眩しかった。  一週間後の日曜日。再び僕は水無さんと一緒に図書館の自習室で勉強会をしていた。が、一週間前と違っているのは、水無さんの集中力だ。先週よりも明らかに集中力が欠如している。理由もわかっている。木曜と金曜のテストの手ごたえがなかったのだそうだ。もちろん、水無さんは真面目に頑張って勉強していた。それは先週の勉強会でも学校での様子を見ても明らかだった。ただ、それでも学校に来てなかった間のブランクが大きかった。一週間勉強を頑張ったくらいではその大きな差を埋めきることはできないみたいだ。  あまりにも進んでいなかったので、声をかけた。 「大丈夫? なにか分らないところあった?」 「もう……何が分らないのかわからない……。どうしよう……」  水無さんは大きな溜息をつく。 「もう、勉強なんかしても意味なんかないんじゃないかな……」 「そんなことはないよ。意味がないことはない。今やってる一問も絶対に力にはなってる。明日明後日のテストではその力は発揮できないかもしれないけど、その次のテストでは力を発揮できるよ」 「そう……かな……」  水無さんの表情は晴れなかった。 「じゃあ、楽しいことを考えるのはどう? テスト終わったらあれをするんだ、とか。何か頑張れるご褒美を考えておくんだよ。何かない? テスト終わり、夏休みに楽しみなこととか」 「ないよ」  水無さんは断言した。 「あるわけない」  その時の表情は蠟人形のように生気がなく、目は一切の光がない漆黒だった。 「じゃ、じゃあさ」  僕はまた考えなしに口を開いた。何を言えば良いんだ、そう考える頭にふと思い浮かんだ光景があった。一週間前に図書館で水無さんと会った瞬間のこと。あの時に思ったこと……。 「水無さんって、水族館とか好き?」 「えっ?」 「だって、先週の待ち合わせの時に水族館の本読んでたから興味あるのかなって。だからさ」  あれ? だからなんだ? 水無さんが水族館好きだとして、だから? だからどうするんだ? 「えっと……」  わかってる。「だから」という言葉の後に続ける言葉なんて一つしかないんだ。 「だから、その、テストが終わったら……、す、水族館に一緒に……行く?」  ああ、この自習室暑いぞ! 空調はどうなってるんだ!!  水無さんは置いていたシャープペンを再び持った。 「わかった。勉強頑張る」  水無さんはそれから先週以上の集中力をもって問題に取り組んでいた。僕もできる限りサポートした。テスト終わりの水族館を心置きなく気持ちよく楽しんでもらうために、できるだけ高い点数を取らせてあげたい。  僕たちが図書館から出たときは暗くなり始めていて、いくらか涼しくなっていた。
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