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「そろそろ、くうちゃんが帰ってくる頃ね」
そう言いながら、濡れた手を前掛けで拭きながら、下駄の音を小気味よく鳴らしてカウンターから出てくると、暖簾から顔を出して、さっきあの人が通って行った方角を見るものだから、のぞみも慌ててお母さんの後から付いて行った。
「あっ、ほら、帰って来たわよ。くうちゃ~ん、お帰りなさい!」
お母さんは、カタカタと下駄の音を鳴らして走って行った。
向こうから、紺の制服を着た小学生の小さな女の子が、大きなランドセルをカタカタ揺らしながら、走ってくるのが見える。
のぞみの一人娘、胡桃だ。
そう、もう一年も前になるだろうか…
胡桃の手を引いて、「住み込みの店員、求む」という張り紙だけを頼りに【ひさご】の暖簾を潜ったのは。
あれはちょうど満開の桜の花が散り始めた頃だった。
「住み込みで働らかせて頂けると、張り紙を見て来たのですが」
胡桃と二人で暮らせる場所を見つけるのに、その時ののぞみは必死だった。
「駄目、駄目、なんぼ住み込みで働いてくれる人が欲しいからって、子持ちは困るわ」
「一生懸命、働きますので。子供の事ではご迷惑をお掛け致しませんので、どうか、働かせて頂けませんか。お願い致します」
のぞみが何度も頭を下げて懇願するたびに、胡桃も母に倣って丁寧に頭を下げていた。
「駄目、駄目、何度頭を下げられても雇う事は出来ないよ。うちも慈善事業をしているんじゃないんだから」
その時のお母さんは、けんもほろろだった。
のぞみも分かっていた。子供を連れて働く場所なんか無い事は… だけど、昔ながらの佇まいを残している【ひさご】の落ち着いた建屋の趣きに、もしかしたらという、小さな希望を抱いてしまったのだ。
「すみませんでした。失礼な事をして、申し訳ありませんでした」
のぞみは、女将さんに深々と頭を下げると、しっかりと胡桃の手を握って、【ひさご】を後にしたのだった。
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