ポケットの声

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ズボンのポケットに、手を突っ込んでみたって、指先に何が触れて来るでもないんだ。 せいぜい、3日前の飴玉1個とか、何かのお釣りの50円玉とか。 そうだよ、ホントにせいぜいがそんなもの…… それでも、僕は、ピューッなんて、くちぶえなんて吹きたい気分で、ポケットに指先を入れてみた。奥の奥まで、底の底の方まで、しっかり届くように。 何も、ない。触れては来ない。 だけど、気落ちなんてしなくていい。 そのうち、小指の先っぽ辺りが痒くなる。ヒト呼吸ごと、痒みは増して、あ、ちょっと痛いヨなんて言いたくなるほどのものになったりする。 コンチハーの声は聞こえないが、何だか仲良しになりたがっていると判る、何だかわからない〝あるもの〟の気配がした。 そのうち、フシギなことが起こった。 ハローコンチハー。 ポケットの奥の奥、底の底の方までへと、僕からだけ、ご挨拶をしてやると、 ハローコンチハーと折り返しの言葉が聞こえて、あ、声がする、僕と仲良しになりたがっていたんだ、ポケットの中にいる〝あるもの〟は、とうれしくなった。 ハローコンチハー。ポケットの奥の奥、底の底からの声を聞くだけで、僕は寂しさから抜け出すことが出来た。 ポケットの入口辺りには、いつも〝踊るゾウさんのキーホルダー〟がパッチンと付けられていたりもした。お守りよと母親がいつだったか、会社の慰安旅行のおみやげに買ってきてくれたものだ。 何本のズボンを履き替えたって、このキーホルダーはポケットの入口にある。歩くたび、ゆらゆら揺れて、全く陽気に踊るようなちいさなゾウさんが、僕は気に入っていた。 物心付いた時から、父親はいなくって母親だけがいた。親子二人の生計を立てるためには、彼女は労働というものをしなくてはならず、学校から帰っても、お帰りと僕を迎えてくれる声はなかった。 そんな僕に、ハローコンチハとー親し気に声掛けをしてくれるものがいる。 そう、いつだって、どんな時だって、ズボンのポケットに手の先さえ突っ込んでやれば……。 僕はウキウキと、そうなんだよ、僕にはこんないいことが起こってくれてるんだと誰彼構わず吹聴したくなったが、待てよと制する気持も働いた。 こんな話を打ち明けても、そうそう信じられるものでもないだろう。 ばかりか口にした途端、大事な何かがパチンと弾けるように、このイイコトは何処かへ消えてしまうかもしれない……。 ――そんな僕だったのだけれど、仲良しのタルオには、ポケットのヒミツを打ち明けたくなった。 タケルは小学校以来の親友と言っていい存在で、中1になった今も同じクラスのヤツである。 ある日の放課後、家に遊びにやって来たタルオに、僕は事の次第を話した。 タルオは、フーンと頷き、面白そうだねと言った。 「面白そう?」 「うん、そう思う。ワクワクする」 ということは、タルオも、おんなじことをしたいのだろうと僕は思ったが、その願いを叶えてやるには、今履いているズボンを脱いで、タルオに履かせなくてはならない。 それってメンドーだ、と僕はためらい、今の話は無しね、と思い切りよく言った。 「だってさ、ずーっとずーっと洗っていないズボンなんだ、そんなのに足を通すなんて、きみだってイヤだろう」 きみのズボンを履きたいなんて誰も言ってないよ、とタルオは笑った。そうやって、タルオは仲良しらしく僕の心配を思いやってくれたみたいだったのだが、やっぱりポケットのヒミツには打ち勝てなかったのか、でも履いてみてもいいよ、履かせてくれよ、と頼んできた。 「だからー、ずーっと洗ってないってば。汚ねーんだよ」 「ヘイキだよ。少し汚くったって、死ぬわけじゃないよ」 「そーゆーハナシじゃないと思うけどな」 「だからー、そーゆーハナシでイイんだってば」 そんな言葉のやり取りをしているうち、どちらからともなく笑い出し、それを合図としたように、タルオはもう、自分のズボンをあっさり脱いだかと思うと、お次は僕のズボンを脱がせに掛かる。 「くすぐったいってば」 部屋の真ん中で、座ったままの僕は、タルオにされるがままという感じ、ベルトを緩まさせられ、そのまま膝小僧まで下ろされる。タイトなジーパンとかではないので、するりとうまく行く。〝踊るゾウさんのキーホルダー〟だって、そのまま外れもしない。 気を良くしたのか、タルオはふざけて股間の辺りを触ったりもする。 ヤメロよーと下半身ごとくねらせた僕を、タルオは両腕で抱きかかえて、痛くないように床へと寝っ転がせる。 「さあさあ、こうやればうまく行くんだよ」と片足ずつ、ズボンから自由にさせて、僕はもう腰から下はトランクスだけの格好にならされていた。 「ハ、恥ずかしいなぁ」 「そんなこと、言いっこなし」 タルオは笑って、ほらこうやればおアイコさと、自分もスルスルとズボンを脱ぎ、トランクスだけになったが、すぐさま、脱がした僕のズボンに足を通したので、僕だけがやっぱり何だか恥ずかしい格好のままでいるようなことになった。 さーてと、とタルオはヒト呼吸して、もうズボンのポケットにと手を突っ込む。まずは右手、そして、またヒト呼吸の時間差で左手。 指先を動かしているのが判る。ポケットの奥へ奥へ、底へ底へと指は蠢く。 「どうだい?」と僕は訊いた。タルオは返事をしない。指先だけを動かし、耳を澄ます風。 「どうだい?」と今一度訊くと、うるさいッと乱暴な声が返って来た。 何か聞こえそうだと思ったら、きみの声がしたので遮られた気がする、こっちが何か言うまで、黙っててくれ、と頼むので、僕は聞いてやらないわけにいかない。 ゴロンと床に寝っ転がる態勢から起き上がっても、トランクスだけの格好でいるのはそのままだったが、あ、そうだ、脱ぎっぱなしにしているタルオのズボンを履けば、こっちもトランクスだけの格好ではなくなるんだと僕はもっともらしく気付いた。 黙っててくれと言ったからには、タルオにしたって、僕が黙ったまま何をしようが、文句は言わない。 そんなぐあい、僕とタルオは、お互いのズボンの取り換えッコをした感じなった。 タルオは、まだまだと手先をポケットに突っ込んだまま、無言だ。 そんな友を見ながら、僕は、手持無沙汰というぐあいにも、履きおおせたばかりのタルオのズボンのポケットに右手、左手を突っ込む。 まさか、そうやってみれば、自分が自分のズボンを履いていた時みたいに、何かの声が聞こえるとかのことを期待していたわけではない。何しろ、自分が今履いているのは、タルオのズボンなのだから。そのポケットにいくら手を突っ込んで、奥の奥、底の底へと指を動かし蠢かせようとも、声など聞こえてくるわけもないのだ。 それでも何かの探し物でもしてみるように、僕は手先をズボンの奥へ底へと突っ込む。突っ込んで、動かす。やっぱり、何にも聞こえない。 タルオも、おんなじの様子だ。 「なーんにも、聞こえね」 タルオはぶっきらぼうな声で言い放つと、アキラメましたというように、ズボンをあっさり脱ぎ、ほら、きみもね、と僕へもズボン脱ぎを促す。 だが、ちょっと待ちなよの気分に、僕はなっていた。 あれ、何だか、聞こえてくる気がする。え、マジで? ハローコンチハー。ハローコンチハーとリフレインする声がするのだ。 黙って、手先だけを動かす僕を見て、タルオは、ハッとした顔をした。 「ズルイな」 タルオは、思わずというようにそんな言い方をした。 「きみには聞こえるんだな。どんなズボンのポケットだって、かまわないんだ。きみが、手先を入れこめば、声が聞こえるんだ」 羨ましそうなタルオに、僕は何も言えず、急いでズボンを脱いだ。 その日から、僕は、落ち着かない日々を過ごすことになった。 タルオのズボンのポケットから声がしたのは確かで、タルオが羨んだのも当然かなと思う。 でも、親しいタルオが履き慣れたズボンだから、それは叶ったものなのかもしれないとも思った。 他の人のズボンのポケットだったら、どうなのだろうと僕は気持をゆらゆらさせずにいられなかった。 と言っても、そこいらにいる誰それに、あなたのズボンを履かせてください、履かせてもらえないまでもそのポケットに手を突っ込まさせてくださいとお願いするわけにもいかなかった。 身近な家族である母親に頼もうにも、彼女はいつもスカート姿で、ポケット付きのズボンなりスラックスなりを履いたりしていない。 クラスメートの誰それにだって、いきなりポケットに手を入れさせてくれなんて、頼めるものでもなかったが、これについてはタルオが協力者になってくれた。 いいものをあげるからさ、と調子のいいことを言って、クラスメートの男子に次々声をかける。どうしてポケットに手を入れたりするのさと訊かれれば、それってつまりこいつの趣味だよ、とタルオは僕を指さし、アハハと笑う。 いいものというのは、ガム1枚だったりキャンディー1ケだったりしたが、ああいいよと油断する男子のズボンのポケットに僕は透かさず手を入れて、素早く動かす。そうやって、僕は〝シゴト〟を果たした。 「どうだった?」 「うん、聞こえた」 「ヤッタな。スッゲー」 タルオの感心する顔を見るのが、僕はすなおにうれしかった。 ハローコンニチハーのほか、ポケットの奥の奥、底の底からは、何かの言葉を発せられるというものでもなかったけれど、僕は満足していた。 それだけでも、もう僕はひとりポッチのにんげんではないんだと強気になれるのは変わらない。 そんな僕が、クラスメートの誰それと言わず、いろんな人のポケットに手を突っ込みたいと願うようになったのも当然の成り行きだったのだろう。 コンビニ、ラーメン屋、バスターミナル、僕が行きそうな所に、ポケット付きのズボンを履いているヒトはいくらでもいた。だが、いくらいたって、その一人一人に、ポケットへの手の突っ込みなんてお願いできるわけもない。仮にタルオが傍にいたって、それは無理だ。 あーあとタメ息を洩らしながら、僕は自分のズボンのポケットに手を突っ込み、ハローコンチハーの声を聞く。いつもとおなじ声だが、焦らなくていいよ、とも、ガマンが肝心だとも、その声は声とも言えずのメッセージを発していると僕は日に日に思うようになっていった。 ……そんな僕はある日の電車の中で、有り難い遭遇をした。 歯医者さんに行った帰りだった。 親知らずを抜かれて、まだ麻酔の覚めきらない右頬を手で抑えたりなんかしていた僕は、隣りに座るおじいさんが、ウトウトと居眠りをしているのに気づいた。 ウトウトが過ぎて、お爺さんの体は電車が少し揺れるたびにも、僕の方に凭れ掛かるようなことになり、僕はその都度、おじいさんが目を覚まさないようにと気を使って、そっとその体の態勢を元に戻してやるよう肩先を動かしたりした。 それでも、おじいさんは、また凭れ掛かって来る。 突然、僕はハッとした。 このおじいさんのポケットに……と見る間に〝野心〟が募る。 おじいさんのズボンは、生地が分厚そうな上着に程ほど隠されている感じで、ズボンのポケットは見ることもできない。だが、上着のそれなら、カンタンかもしれない。 思い付くと、恐る恐るゆっくりと、上着の右ポケットに僕は手先を突っ込ませた。 おじいさんはウトウトしているままだ。 僕はもう、指先を奥へ奥へ、底へ底へと突っ込ませる。 果たして、声はした。 ハローコンチハー。 ヤッター、成功だ。 味をシメた僕は、その日から、電車に乗るたび、ウトウトと居眠りをしているヒトを見つけようとした。思わず、〝物色する〟という目付きにもなっていたかもしれない。 そうしてみたなら、思った以上に、のんびりと居眠りをしているヒトはいてくれて、僕は獲物を見つけた猟師のように、嬉しさを隠し切れなかった。 疲れた顔のおばあさん、サラリーマン風の中年男性、買い物帰りの主婦らしき女性……獲物の〝ウトウトにんげん〟は、いくらでもいてくれた。 彼らのズボンやスラックスや上着のポケットに手を突っ込ませている最中、といってもそれは、ほんの何秒かのことであったけれど、それでも、目を覚まされたらヤバイんだとの自覚はもちろんあったから、素早い動作で行なった。 そのたび、僕は運よく成功し、ハローコンチハーの声を聞いたのだった。 けれども――。 ポケットとの蜜月の日々……は、しかし、やっぱり長くは続いてくれなかった。 ある日、やっぱり歯医者さん帰りの電車の中でウトウトしている老人(一見、おじいさんだかおばあさんだか判らない。でも、だぶだぶとした上着をやっぱり着ている)のポケットに僕は手の先を突っ込んだ。でも、そのポケットには穴が開いていて、僕の指先はチョコンと奥の奥、底の底から飛び出してしまった。 あっれーと笑いたくなりながら、僕は電車を降りた。だが、改札口を抜けたところで、不意にも後ろから肩を掴まれた。 「きみはいけないことをしているな」 エッと振り向けば、何だか柔道選手みたいに恰幅のいい大人の男性が、僕をにらみつけている。 「どういうつもりなんだ。ヒトのポケットに手を突っ込んだりして。スリなのか、きみは」 心臓が一気に鼓動を速くなる。 「スリだなんて。そ、そんなつもりはないんですが」 「自覚がないのが、いちばん、いけないってことを知らんでもないだろ」 押しの強いまなざしで、射すくめられるばかり、僕はタジタジとなるしかなかった。そんな僕を見て、なぜだか、男性は1度ニコリと笑ってみせ、 「シンパイしなくていい。このまま警察にでも引っ張って行こうってんじゃない」 と急に声の調子をやわらかくし、しかし、 「でも、何処かには行こう」と言った。 きみは自分に逆らえないのだ、と目を据えてくるばかりの男性に、僕は抵抗できなかった。 連れて行かれた先は、男性の住まいらしい部屋だった。 まあ、飲みなよと缶のコーラなど冷蔵庫から取り出して手渡してくれる男性は、やっぱりやさしい雰囲気だ。 「さっきは、ちょっと悪かったな。スリだなんて、言っちゃってさ」 「はぁ」 「いや、きみがスリとかそんなものじゃないってことは判っている。きみは、ただ、聞きたかっただけなんだよな、そうだよ、あの……」 「あの……?」 「そうさ、あの声をだな」 僕は、ようやくコーラをヒト口飲んだ。男性も自分のコーラを飲む。ヒト息でなく、イッキ飲みに近いような飲み方をして、「そうさ、あの声」と繰り返す。 「どうして、そんなことが判るんですか」 僕は恐る恐る訊いた。 男性は、コーラの炭酸に一瞬噎せたような咳をしてから、 「そりゃあ、判るさ。何しろ、今のきみは昔のオレなんだからな」と事もなげに言う。 「昔のあなたが、今の僕……」 僕は自分もコーラの炭酸に噎せそうになりながら、男性を見詰めた。 男性は、やさしくやわらかなまなざしで僕を見返す。 「昔のオレである今のきみには、まだわかっていないことがある、それをオレはきみに教えてやりたいんだ」 訳がわからず、はぁと頷くだけの僕に、男性は言葉を続けた。 「今は、ハローコンチハーだけで済んでいるが、そのうち、その先の声が聞こえてくる。それは明日かもしれないし、1カ月先かもしれないし、いや1年先のことかもしれない。ともあれ、いずれ、〝その時〟はやって来るんだ」 「そ、それは恐ろしい命令みたいなものなんですか。何か途方もない悪事を働け、とか、そういうことを告げられたりとかするのですか?」 「どうだかな」 微かに笑って見せたかのような男性は、それから、おもむろにズボンを脱いだ。 「さあ、脱げ」 「は?」 「脱げ、きみもズボンを脱ぐんだ。そして、履け。オレが今脱いだズボンを履くんだ」 ウムを言わせないといった調子の男性に、逆らえるわけもなかった。 僕はズボンを脱ぎ、男性のズボンを履いた。 僕より大柄に見える男性のズボンなのに、履いてみると、妙にピッタリサイズであるのが不思議だった。 男性は更に言う。 「さあ、ポケットに手を突っ込め」 「ハ、ハイ」 最早従順な僕は、言われるがままだった。 「よし、履いたな。じゃあ、もう今からすることは言われなくても判るな」 頷くしかない僕は、指先をポケットに突っ込む。ポケットの奥の奥、底の底までも。 「どうだい?」 「な、なんにも聞こえません。聞こえて来ません」 そうか、よかった。男性は、ホッとするばかりの顔になって、僕の片頬を撫でた。コーラの炭酸の匂いがする息を、僕は嗅いだが、それが厭でなかった。 そして、気が付けば、いつの間にやら、男性は僕のズボンを履いている。やっぱり、ピッタリサイズで、男性の下半身を覆っている。ポケットの入口の〝踊るゾウさんのキーホルダー〟もいつも通り楽しそうに揺れているが、男性は気付いているのか、どうか。 もう、帰っていいよ、と男性はやさしい声で促した。 はい、と僕は返事をし、男性のズボンを履いたままで、部屋を出た。 男性が僕のズボンを履いたままでいるからには、そうするしかなかった。 僕は新しいズボンを履いて、学校に通った。 近くのスーパーのバーゲンセールで、母親が買い置きしてくれていたものだ。 何も聞こえない、うん、聞こえないんだと僕は新しいズボンのポケットに手先を突っ込み、呟いた。奥の奥まで底の底まで突っ込んだって、なーんにも聞こえない、聞こえてこない。これでいいんだ、と僕は頷く。 だが、例のごとくというか、仲良しのタルオには、男性との一件について、打ち明けてみたくなって、そうしてしまった。 ところが、「あのさ、ズボンのポケットのことだけどさ」と話し掛けても、何のことだい?とタルオはきょとんとしているばかり。「この間の中間テストの成績がひどくってさぁ」なんて言って、頭を掻いている。 ホンモノのUFOを見てしまったにんげんが、見られてしまってはマズイと判断した宇宙人から、瞬間的に記憶を消されて何事も無かったようなことにされる、と僕はタケルの様子を見て、いつか聞いたそんな話を思い出したりもした。 それにしても、男性のズボンを返さなくていいのだろうか、そして、そうだ、僕のズボンだって返してもらいたい、と僕は思うのだった。 そうだよ、あのお気に入りの〝踊るゾウさんのキーホルダー〟だって惜しい。 仕事で忙しい母親は、キーホルダーのロストについてまだ気づいていないようだが、そのうち、ゾウさんはどうしたの?と訊かれでもしたら、僕はうまく答えることが出来ないだろう。 そうとも、それはマズイマズイと僕は学校帰り、あの日のことを思い出しながら、男性の部屋があったらしいビルへの道を辿ってみた。電車を降りてからの道筋というものはうろ覚えだが、なんとなく思い出せるような気がした。 でも、そうそう、この角を曲がって真っすぐ行ってまた角を曲がってと見当付け、ここらだったよなと辺りを見回しても、ビルは見つからないのだった。 その行いを、1週間ほど飽きもしないで続けたが、結果は同じだった。 と……今日で終わりだな、とあきらめ気分で帰りの電車に乗った僕は、ハッと目を引き付けられずにいない人物を見た。 程ほど空いた電車の座席で、僕と同じ年恰好の少年が、ウトウトと居眠りをしている。 少年が履いているズボンに、僕の目は釘付けになった。 あ、それって……〝踊るゾウさんのキーホルダー〟が、ポケットの入口にパッチンと付けられていて、ウトウトの少年が、こっくりこっくりと首を振るたび、ゾウさんはゆらりと揺れて、踊る。 僕はためらわず、横に座った。 ピッタリサイズのズボンの、そのポケットの中へと僕の指先はいつしか、嵌り込んで行く。その奥へ奥へ、底へ底へと……。 少年はウトウトしているままだ。 そのうち、声が聞こえてきた気がした。 だが、すぐに消えた。 その瞬間、少年が、そっと目を開けた。何かを問いかけるようなまなざしを向けられる前に、僕は立ち上がった。さよなら。誰にとも判らないまま、僕は呟いていた。
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