4−2

1/1
23人が本棚に入れています
本棚に追加
/53ページ

4−2

 ぎしっ  変な音がした気がして、千春は目を覚ました。  ここ一週間近く、彼は両親に呼ばれ、二人の寝室にて三人で寝ていた。  お姉ちゃんは? と何度か訊いたが、その度に答えをはぐらかされて、彼女が居ないまま三人の夜を過ごす。徐々にそんな生活にも慣れ始めていた。だが、大きな軋むようなその音は、この一週間で初めて耳にする。  隣で寝ていたはずの父は居ない。窓を開けて扇風機を回しているベッドは三人並んでいると、両親に挟まれている千春は少し暑い。けれど、父が隣に居ないのは心細かった。瑞希のシャツの裾を掴みながら、何とか眠ろうとする。  ぎしっ  ぎしっ  一定のリズムで、やはり軋む音が聞こえる。その音がどうにも気になって、徐々に千春の目は冴えてしまった。そうなると、トイレが気になってくる。眠い目を擦りながら、瑞希を起こさないようにそっとベッドを離れる。朝起きて迷惑を掛けてしまうかも知れないので、仕方無くトイレへ 向かうことにした。  だが、不気味な異音は階段の方から聞こえる。部屋のドアを静かに開けると、吹き抜けの階段が見える。廊下側の手摺から臨む吹き抜けを、明かり取りから差し込む僅かな街灯の光が照らす。  ……手摺の柱に、何かが巻き付いているのが見える。音は、そこからしていた。  ぎしっ  ぎしっ  一歩、二歩と近付く。ロープだ。ロープが巻き付けられている。しかし千春はまだ、その意味を理解出来るほど物事を知らない。 「駄目だよ」  背後から、カケルの声がする。振り返ると、千春と階段の踊り場を交互に睨むようにして見るカケルが居た。行くな、というのだろうか。自分だけに見える友達には、一体何が見えるのだろう。  千春は、自分の心の中に生まれている感情が恐怖であると、まだ理解しきれていない。  ただ、好奇心と緊張、一握の興奮だけが、彼の中にあった。  ゆっくりと、足音を忍ばせて階段に近付く。一段、二段と降りていく。  ──一階の廊下が見えるより先に、ロープの先端に繋がれた人間の体が見える。人影は、スーツを着ている。父が着ているそれに似た……いや、同じスーツだ。  階段の踊り場まで、降りる。  そして、それははっきりと千春の視界に飛び込んでくる。  父が、千春に背を向ける形で、ロープで首を吊っていた。  そして廊下、道成と正面から向き合うようにして、真鈴が仁王立ちで立っている。  忍足でやってきた千春の姿を見て、初めてその存在を認識したように、口元だけ浮かべていた笑顔を凍り付かせ、彼を凝視していた。  ──見てはならないものを見た。  幼心に、それを察する。瞬間、千春はその場に存在する全てが、普段彼が目にし、触れられる日常の光景から遠くかけ離れたものだと直感的に理解した。  怖い。姉が、怖い。  うぐっ、と父の体が苦しむように揺れたのを切っ掛けに、千春は跳ねるように階段を駆け上がる。 「待て!」  姉が叫び、首を吊る父の体を押し退けて階段を走ってくる。千春は廊下を走り、瑞希の眠る寝室のドアを押し開けた。  ドアを閉じる直前、階段を登り切った姉が見えた。右手に、裁ち鋏を持っている。ロープの巻き付けられた手摺と千春を交互に見て、口惜しそうに歯を食いしばり、怒りの表情を隠そうともしなかった。が、それでも千春を追うことはせず、その場で足を止めて。  バン! と勢いよくドアを閉めた音で、瑞希が体を震わせて目を覚ました。 「な、何?」  寝ぼけた頭で周囲を見回す彼女の隣に、千春は無言で飛び込む。どうしたの、と声を掛ける瑞希だが、千春は答えない。ただ、彼自身理解出来ない恐怖という感情に、体を震わせるだけだった。  その様子を見て、何か感じ取ったのだろう。瑞希は無言で千春を抱き上げ、強く彼を守るように抱き締めながら、部屋の外へと向かう。彼女の視線の先を、千春は恐る恐る追った。  手摺りには、何も無い。よく観察すれば、ハサミを乱暴に引っ掛けたと思われる傷が確認出来ただろうが、二人は気付けない。瑞希は階段をゆっくり、恐る恐る降りていく。  一階の廊下にも、何も無い。千春が先程見たものも、人も、何も。  ただ違うのは、リビングから明かりが漏れていたことだ。会話も僅かに聞こえてくる。瑞希はすっかり大きく重くなった息子の存在を確かに感じながら、彼を離さないように一層強く抱き締めて、リビングのドアを開ける。  道成と真鈴が居た。道成はキッチンで、電気ケトルの前に立っている。真鈴はダイニングテーブルでのんびり座っていた。  千春達を見ると、道成が「おお」と声を上げる。 「悪いね。起こしたか」  寝ていたはずの父は、仕事から帰ってきたばかりらしいスーツ姿である。それに違和感を全く覚えることなく、真鈴は微笑みながら言った。 「眠れなくなってさ。丁度お父さんも居たから、お茶淹れてもらうの」  真夜中の、ちょっとしたコミュニケーション。その様子だけ見れば、微笑ましい光景かも知れない。  けれど千春は、自分を抱いている母の体が震え、心臓の鼓動が速くなっていることに気付いていた。しばし無言だった瑞希は、道成に尋ねられる。 「瑞希も飲む?」 「……私は、いい。すぐ寝るから」 「千春はどうする?」  と、真鈴が訊いた。とても仲のいい姉ならばそうするだろうというように。  トイレ、と小さな声で、千春は答えるのが精一杯だった。それを聞いて、瑞希は無言で後退りし、リビングのドアを閉める。 「──おやすみ」 「おやすみ」  普通の、家族の会話のはずだった。  けれど、その会話の何処にも、今までの安らかな雰囲気は無くて。  その異常さを、リビングの真ん中で父と姉を睨むカケルが、如実に語っていた。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!