29人が本棚に入れています
本棚に追加
序 死ノ一
長くない俺の人生を表すなら、最悪の一言に尽きる。
学が無いままに生きていかざるを得なかった。スタート地点から環境が違い過ぎた自分の境遇を呪わずして、どうしろというのだろう。
そもそも俺という肉体と頭脳、そして精神は、人間が集団生活を構築するこの環境で、まともに機能しなかったのだ。
誰かにこの怨嗟を吐き出すことも出来ない。する相手も居ない。居たところで、それは俺の責任だと言われるだけだろう。そして俺の話を聞いてくれるような人間は皆、恵まれた場所から助言を施し、福祉センターの窓口を案内して話を終わらせたがる、そんな連中ばかりだ。
そうじゃない。そうじゃないんだ。
もっと自分を満たしてくれる指標が欲しいんだ。
けれど、誰も分かってくれない。
今日は運が悪く、何処のネットカフェも満員だった。久し振りに入った日雇いの収入が懐を癒してくれた安心感から、つい居酒屋でのんびりしてしまったせいだろう。これは俺の落ち度だと諦めていたが、夜の街を二時間歩いた頃になって、徐々に忿懣やる方ない気持ちが湧き上がってきた。
働いて、働いて、その結果が街を徹夜で歩くこと。理不尽極まりない。今日ぐらい、ネットカフェのリラックスシートで体を安心して横たえる夜の時間をもらったっていいじゃないか。
だが、ホームレスはそうもいかない。休む時間それ自体が贅沢なのだ。
都心のネカフェを転々とする生活は、ネット経由ですぐに小さな仕事を見付け、即座に職場へ向かえるという利点がある。が、こうして寝ぐらの確保に失敗し街を歩いて過ごす選択をしてしまうと、都会は途端に牙を剥く。街中を歩いて、うっかり俺がホームレスだと悟られたら、ヤバい半グレや本能のままに生きるだけの低脳な家出したガキ共に簡単に身ぐるみ剥がされてしまう。
だから歩くしかない。一晩中、目的も無く。
百円ショップで買った腕時計を確認する。午後十時四十分。まだまだ、夜の時間は続く。
舌打ちをして顔を上げ、ふとショーウィンドウを眺めた。
シャッターの下りたテナント。ライトは消されていたが、雑貨店の商品は美しく陳列され、大通りに面したガラス越しに通行人へその勇姿をこれみよがしに見せつけている。殆どの人はそれを気に掛けず、欲しくもない商品が並んでいることに全く関心を寄せない。そもそも欲しくない商品か、既に持っているもの、或いはもっといいものを持っているからだ。欲しい、と思っていたなら、足を止めるか、目で商品を追うに決まっている。俺が今そうしているように。
安くも高くもないスーツ、トートバッグ、パンプス、ネクタイピン、ブリーフケース。
こんなものすら、俺は持っていない。この中の、ただの一つも。
夜の街がガラスに反射させる俺の姿は、自分でも滑稽に思えるくらいに見窄らしい。
まだ春になったばかりだというのに着ている、黄ばんだ寒そうな薄手のシャツ、汚れたジャケット、辛うじて新品に見えるデニム、茶色に変わった元白色のスニーカー。自分で切った不揃いの髪、剃り残しの髭、消えない目元の隈、治らない猫背。
そして、そんな貧相な体躯に似合わない白い新品のバッグ。
ハッとしてバッグを小脇に抱え直し、足早にその場を離れる。駅に向かうサラリーマンの群衆に逆らうように、飲み屋が並ぶ通りを抜け、喧騒から遠ざかる。
そうしてちょっと歩いたところで、俺は一旦足を止めた。飲食店の裏口や、暖簾を下ろした質屋や金券ショップが立ち並び、殆ど人通りは無くなっている。ただ、チリチリと鳴る街灯の明かりだけが俺の目に眩しい。
近頃はすっかり慣れてしまった置引きでかっぱらった、その白い鞄を開けた。もう無意識に近く、俺は盗みを働くようになっている。ただ働くよりもずっと楽に何か対価を得られるその行為が、酷く蠱惑的で、時々仕事を見付けて一日を無駄にしながら報酬を得ているのが馬鹿馬鹿しく思えてしまうくらいに、それは習慣的になっていた。
時には一日を豪遊出来る当たりの獲物に恵まれる時もあるが、今回はどうやらハズレらしい。財布は無く、金に変えられそうな品も入っていなかった。化粧ポーチと手鏡、汗拭きシートといった、持ち主の性別と性格を伺わせる品ばかり。
つまらない。盗んだものも、持ち主も。クソッタレ。俺は盗んだバッグの持ち主である、ババアと言って差し支えない女の後ろ姿を思い出す。
身なりだけは良さそうだった。どうせあんな女、見栄ばかり張って身の丈に合わない生活をしているだけだろう。価値は分からないが、このバッグにある化粧品だって、無理に生活を切り詰めて購入した物品なはずだ。
ちっぽけで惨めな愉悦感を抱きながら微笑み、俺は物色を続ける。せめて一つ、何か金目のものがあればと。が、どれだけ探しても、目ぼしいものはない。
しかし一つだけ、気になるものがあった。一冊の本だ。
背表紙が紐で閉じられた、古い本だ。所々痛んでおり、しかし保存状態が悪いという印象はない。単純に、酷く年月が経過していただけだろう。パラパラと中をめくって確認すると、現代語ではない言葉で何か言葉が書かれている。挿絵なども無く、漢文とでもいうのだろうか、全く読む気の失せる文字が羅列していた。
そんな本が何故か、俺の目を惹く。
本の表紙には、筆文字で辛うじてタイトルが書かれているのが読めた。
『呪月大全編纂録』
まるでこの本自身が、俺を呼び、そして読めと促しているかのような。囁きかけているような。
馬鹿らしい。学の無い俺が。
……けれど。
この魅力を感じたからこそ、あの女もこんな本を持っていたのじゃないだろうか。
そんな根拠の無い推測を立てて、俺はただ、本に身を任せようと思い始めていた。
最初のコメントを投稿しよう!