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 十四日木曜日。  真鈴が気を重くしながら家を出た朝、彼女はそれに気付いた。  棒立ちする人影の群れは、今やハッキリとその輪郭と顔を形作っている。そういう人だ、と言われても、一見しただけであれば何の違和感も持たないだろう。一週間以上も無害と思われたその姿を見続けていたせいで、もしかしたら何の脅威でもないのかも知れないと、そう考えさえし始めていた。  だがその日の朝は、どれだけ人影を避ける道を選んでも、角を一度曲がれば必ず『それ』が立っていた。  おかしい。恐怖と違和感は膨らみ、そうして避け続けて道を進んで、ようやく戦慄する一つの事実に気付いたのだ。  人影は全て、自分の家を囲むように立っている。  日に日に彼らは家に近付いている。  そして、何処かあらぬ方を向いていると思われた彼らは皆、例外無く家の方を向いているのだと。  登校してクラスメイトへの挨拶もそこそこに、真鈴は真っ直ぐ綾の方へ向かっていき、その事実を小声で話した。すると彼女は顔を青ざめさせ、謝る。どうやら先日真鈴の家に来た時、その可能性には気付いていたらしい。  真鈴は怒っていなかったが、素直に「大丈夫」とは言えなかった。何の関わりも無いのではないか、と自分に言い聞かせ、目を逸らしてきた可能性が、一気に確信へと変わってしまったのだ。動揺を抑えることも出来ない。 「怖い。どうしたらいいの」  訴えるが、綾も返答に窮している。当然のことだった。それでも彼女は悩み、自身の指を噛んで思考を巡らせる。自分達のすぐ周りで広がるクラスメイトの笑い声や喧騒が、酷く遠い。自分達だけが取り残されているみたいに。  一限目の予鈴が鳴り、そこで綾は顔を上げて口を開く。 「分かること、何でも教えて。出来るか分からないけど……手掛かりがあれば調べてみる」 「でも、綾が見てるのは幽霊とかじゃないって」 「うん。でもそれ以外の話として今まで調べてきたこともある。私があの力で感知出来たってことは、私が調べてきた範囲で対処出来る部分もあるかも知れない」  言われて、分かったと答えたのが今日の朝のことだ。  今、真鈴は週に二回しか顔を出せない美術部に顔を出し、一人黙々とスケッチブックに鉛筆を走らせている。  水曜日と木曜日は、母が早く大学を出られる。週に二回は彼女が千春を迎える予定なので、従来であれば数少ない真鈴の平穏な安らぎの時間になるはずだった。が、今は心中まるで穏やかではない。この三日間で覚えた複数人の男女、その似顔絵を詳細に描かなければならない。  顔、服装、特徴。なるべくならば彼らに近付きたくないという心情から、可能な限り記憶だけを頼りに描く必要があった。  他の部員や顧問が何を描いているのかと覗き込んできても、次の絵のコンテみたいなものです、と苦しい言い訳をするしかない。まさか、自分が見ているお化けの姿ですと正直に話すわけにもいかない。  二枚、三枚と、丁寧さよりもとにかく一人でも多く描くことを優先した為、スピードはとにかく早かった。それはデッサンというより、クロッキーに近い。それでも、全身像と正面からの顔は、記憶にある範囲で特徴を捉えられていると自分でも思う。だが、四人目を描き終えてからはもう記憶が曖昧だった。それ以上は、また直にその姿を確認しなければならない。  汗を拭って鉛筆を離し、真鈴は項垂れる。息が苦しい。まるで飲み水が気管に入ったような痛みと苦しさを感じて、彼女はそのまま数度咳き込んだ。  そんな彼女の横から、美術部顧問がやってきてスケッチブックを覗き込む。 「これが今度のモチーフ?」 「えーと、ちょっと悩んでて」 「だいぶ方向変えたねえ。んー、新しいことを目指すにしても、ちょっと攻め過ぎかもね」  それはそうだ、と内心苦笑する。そのクロッキーに、自分のやりたいことや意志は一切介在していない。ただ、見たものを写すだけだ。こだわりもプライドも何も無いのだ。  だが、教師はそうしたことを言いたいわけではないらしい。 「ちょっと、その……汚い感じかな」 「ラフなので」 「いや、そうじゃなくてね。見ててあまり気持ちのいい被写体じゃないから。もしもそれを狙って描きたいならアドバイスするけど」  頑張ってね、と言って次の生徒の方へと向かう教師の背中を見送りながら、真鈴は考える。視覚的に汚い被写体。確かに彼はそう言った。  改めてスケッチブックに手を伸ばし、パラパラと自分が描いた四人分の全身像と顔を見直す。そうして見ると確かに、老若男女で一見して共通点が無いように思えたが、皆、どちらかといえば小汚い身なりをしている。普通の服を着ている男性が一人居たが、それが相対的にとても上品に見える程に。  これも何かに関係しているのだろうか。考えたが、真鈴には何も分からなかった。  夕方、帰宅時。  遂に真鈴は家に到着する前に泣いてしまった。  朝に比べてもはっきりと分かるくらいに、人影達は自分の家に近付いている。  家のガレージのシャッターは開いていて、瑞希の使用している軽が停めてある。リビングの窓からも蛍光灯の明かりがレースカーテン越しに溢れ、薄暗い表の道を仄かに照らす。二階の千春の部屋にも明かりが点いていて、リビング側とは違う道と向かいの建物を明るく照らしていた。  明かりの照らされている道、或いはそこから一本曲がった道。  ……そのいずれかに必ず一人以上、『人影』が存在していた。  最早、彼らを避けて道を選んで帰宅することは不可能になっていた。泣きながら家の周囲を回っても、どの道にも連中が居る。自分の方に背を向けて、安寧の我が家をじっと見つめながら。  家族を頼ることなど出来ない。頭のおかしい子だと思われる。ただでさえ自分で自分に自信が持てない今の状況で、家族から──母から見放されたら、自分の心がどうなってしまうのか、想像したくなかった。弟に頼ることも出来ない。威厳云々の問題以前に、真鈴が頼れる存在としてはあまりに心許なくて。  ……父親。  道成を父と呼ぶことにはまだ抵抗がある。もう家族になって六年以上が経過したのに、真鈴はどうしても素直に彼を父と呼ぶことが出来ないままでいた。  それが『あの夜』の出来事に起因するという事実には気付いているが、だからどう解決出来るというものでもない。素直になれない自分に、若干の自己嫌悪を覚えた。  男。女を犯す生き物。  それは極端に過ぎるイメージだったが、一度イメージとして刻まれてしまったものは払拭し難く、過度な拒否反応を心の中に生んでしまう。  道成と言葉をもっと交わしてきていれば、この拒否反応も消え、普通の親子として接することが出来たのだろうかと、考える時は多々ある。だが今はどうしようもない。  さりとて、スマホの電話帳に記録の残る実父の番号に頼ることもしたくなかった。  実父──石沼達己という男に嫌悪感を覚えたのは、いつのことだったろうか。  母が苦しい顔をしながらも、仕事と家庭を両立させる為、どうにか仕事と育児を両立させようと悪戦苦闘していた様子が、幼いながらも真鈴の頭の中にずっと残っていた。けれど当の父は母を具体的に助ける行動を起こすこと無く、いつだって気楽に振る舞っていた。機嫌が良ければ娘と遊んでやろうとするが、機嫌が悪ければ邪険に扱う。全て自分本位で行動し、子供を育てようという気概がまるで感じられなかった。  石沼との思い出は、そんな苦さを思い起こさせるものしかない。きっと、子供に興味が無かったのだろう。いつも母と金銭の話をしている光景が、家族三人で集まっている時の一番印象深い記憶だ。  実父だからという理由で、電話番号はまだ手元に残している。直接自分に危害を加えた相手ではないから完全に憎みきれないというだけで、瑞希を支えなかったその姿勢には決して賛同していないし、彼のその態度と行動を忘れることはない。ただ、義理のようなものを感じているだけだ。それだけが、真鈴の電話帳に彼の番号を残す唯一の理由である。  そんなだから、こんな状況で彼を頼れるはずもない。  悩み、恐怖と苦しみで頭の中がグシャグシャになってしまった。その場に座り込んで頭を抱え、ボロボロと涙を流す。  と、そんな真鈴に声を掛ける人が居た。近所の老婆、金城である。買い物カートを押しながら、うずくまる真鈴を心配そうな顔をしていた。見るに見かねて声を掛けたというところだろう。怯えるように振り返って彼女の顔を確認した真鈴は、必死に涙を手の甲で拭き取った。 「凄く、気分が悪くて、歩けなくなって……あの、すぐそこなんですけど、手、引っ張ってくれませんか……」 「おお、おお。いいよいいよ。掴まんなさい」  差し出されたか細い手が、心強く思える。離さないように金城の皺がれた手を握り、真鈴は顔を俯かせたまま、彼女のペースに合わせてゆっくりと歩みを進めた。年寄りののんびり歩きで申し訳ないけれども、という金城の言葉にぶんぶんと首を振り、細い声で「助かります」と絞り出すように言って。  一歩、一歩、家へと近付く。先程盗み見た光景が変わっていなければ、玄関から十メートルも離れていない場所に一人、男の『人影』が立っていたはずだ。向かいの家の壁を背にし、呆けた顔で二階の暗い部屋を見ていたはずだ。自分の部屋を。  一歩、一歩、一歩。  俯いた視界の右端に、足が見える。裸足だった。爪が割れ、肉が露出している。裾が引き裂かれたようにボロボロになった見窄らしいズボンが、土に汚れていた。  異質。異常。そんな存在がすぐ隣に、目的も分からず立っている。自分の家を見上げながら。その事実に体を震わせる。 「真鈴ちゃん、何か怖いことでもあったかね?」  金城が心配そうに尋ねた。真鈴は無理矢理に笑顔を作り、『足』から目を逸らし、金城に微笑む。 「突然、アレ来ちゃって」 「あらー。私もねえ、昔凄い重かったの。家族が誰も理解してくれなくてね」 「大変でしたねえ」  そんな、女同士の会話が辛うじて気を紛らわせてくれる。「なので、ウチの家族には内緒にしてください」 「うん、うん、分かったヨォ」 『人影』の目の前を過ぎれば、心理的にはかなり気が楽だった。けれど、玄関前の階段を上がってしまってからは、金城の顔をちゃんと見ることが出来なかった。本当はしっかりとお礼を言って、心から感謝を伝えたい。  けれど、完全に振り返ってしまったら。  きっと目が合ってしまうから。  肩越しに僅かに振り返って深々と頭を下げるだけにとどめ、真鈴は急いで玄関の扉を開けた。手を振る老婆の姿を最後までしっかり見られなかった。とにかく、自分のすぐ傍に得体の知れない存在が居るということに、体の全細胞が震え、悲鳴を上げていたのだ。  急いでドアを閉め、鍵を掛ける。道成はまだ帰宅していないようだが、今はそれを気にするどころではない。真鈴は再び玄関でへたり込み、静かに声を上げずに泣いた。  その夜は終始気分が落ち込み、母にも心配された。大丈夫、と答えはしたものの、まるで心は休まらない。烏の行水のように急いでお風呂を済ませ、リビングで歯を磨き、そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ戻る。そうして、部屋の電気を点けたまま眠った。  翌朝になっても、恐怖は拭えない。タオルケットを体に巻きつけたまま、真鈴は浅い眠りと覚醒が続いた一晩を過ごし、そして情緒不安定になっていた。  母には「凄く気分が悪い」とだけ伝え、学校に休みの連絡をしてもらうことにした。道成がわざわざ部屋にやってきて具合を尋ねにやってこようとしたが、そんなことをしようとする時点でデリカシーが無いので、枕をドアに叩きつけ、入ってくる前に牽制をする。きっと、反抗期も過渡期だなとか、全くピントのずれたことを考えて笑っているに違いない。臆病なあの男は、そういう態度しか取らないのだ。  実の父よりはずっといい。けれど道成も、あの男と根本は同じだ。自分本位で、それが誰かの為になると勘違いしている。母にそれを相談したことが一度あったが、やんわりと嗜められた記憶が蘇った。  ベッドの上でうずくまってそんな嫌な記憶を追い払おうとしていると、優しいノックの音がした。瑞希だ。どうぞ、と答えると、母は頭を半分だけドアから覗かせて言った。 「学校には連絡したけど、今日千春のお迎え行けそう?」  行きたくない。そう答えたかったが、実際可能かどうかは分からない。午後、家の周囲を取り囲んでいる『人影』がどうなっているのか、まるで予想が出来ないのだ。しかし丸一日学校を休んで母に負担を掛けるのも、どうにもバツが悪い。  心苦しいが、また綾に来てもらって、それから迎えに行くことにしよう。そう決めて、真鈴は頷く。瑞希は笑って、 「じゃあ頼むね。これから千春連れて出るから。鍵閉めてくね」と言って、ドアを閉める。  部屋が静寂に包まれる。安堵し、真鈴はベッドの上で再び目を閉じる。  ……静かな、一人だけの一日が始まるはずだった。  瑞希がドアを閉めたのとほぼ同時に、ドタバタと廊下を走る音がする。足音が真鈴の部屋の前で止まり、慌てたような、けれど控えめなノックが繰り返される。 「え?」と疑問を声に出すと、それを肯定と受け取ったのだろう。  開いた扉から、瑞希が顔を出す。 「ゴメン、ちょっと今日朝からドタバタしてて! ご飯置いといたから食べてね! 学校には連絡しといたから。悪いけど千春の迎え、今日もよろしく!」  一方的に伝言をして、急いで瑞希はドアを閉めた。急いで階段を駆け下りて、「千春行くよー!」と叫ぶ声が聞こえる。  ──今のは、何だ。  言い忘れたことがあったからもう一度来た、という様子には見えなかった。伝える内容は重複し、二回目に瑞希が顔を出した時はどう見ても、今日初めて真鈴と会話をしたという風だった。  タオルを放り出し、足早に部屋を出る。階段を降り、一階の廊下に降りたところで、廊下の先に続く玄関の土間で、靴を履く母と千春の姿があった。母は慌てており、千春を急かしている。朝の光が差し込む玄関口が、やけに遠い。 「行ってきます。ほら、千春も」 「いってきまーす」  小さく手を振ってくる千春に、呆然としながら真鈴もそっと手を振り返す。  先程の光景が何だったのかと、何度も反芻して考えてみるが、まるで答えが見付からない。  行ってらっしゃい。そう言おうとしたが、舌が乾いて言葉が出てこなかった。呆然としている間に、二人は玄関を開け、外に出てしまう。玄関ドアの磨りガラス越しに、母の姿が見えた。ガチャリ、と外から鍵を掛ける音がする。  ──だが、動かない。  千春の姿は見えないが、上辺から下辺までを繋ぐ、幅十センチ程度の縦長の磨りガラスの意匠が施されたドア。閉まってから、ガラスの向こうに母の影が残り、そして微動だにしなかった。  嫌な予感がすると同時に、即座にそれは的中する。  三十秒ほども、ガラス越しの母はその場を動かなかった。にも拘らず、ガレージから車のエンジンを掛ける音がする。母の使う軽のエンジン音。聴き慣れた音。車がガレージを出て、表の道を市街地方面に向かい、走り去っていく。  確かに瑞希は息子をチャイルドシートに乗せ、車を出発させたのに──  磨りガラスの向こうに、母のシルエットがそのままある。  鳥肌が総毛立つ。足が震える。初夏だというのに、やけに肌寒かった。  シルエットは動かない。長い黒髪、グレーのパンツスーツ、黒いパンプス。見慣れたはずの母の後ろ姿は、何故かまだそこにある。  呼吸が乱れる。息をしているはずなのに、何故か酸素が上手く肺に取り込めなかった。真鈴はその場に崩れ落ち、玄関から目を離せないまま、階段に手をつき、一段一段、体を引き上げるようにして登っていく。  早く玄関から遠ざかりたいのに、体は酷く緩慢で。  トン  と、シルエットが手を磨りガラスに突いた。  黒い手形が、体のシルエットよりもハッキリと濃く浮かび上がる。  それだけでもう、駄目だ、と思ってしまった。短い悲鳴を上げて、真鈴は這いつくばりながら階段を猛スピードで上がり、自分の部屋へと進んでいく。腰なんて立たなかった。開いたままのドアを勢いよく閉め、放り出したタオルを引っ掴んで再びくるまりながら、真鈴はベッドの上でガタガタと震える。  昨晩、家の周りを取り囲んでいた『魂』の一人だ。そう直感する。  遂に連中の一人が、この家の敷居を跨いだ。  家にやってくる。入ってきてしまう。  あいつだけじゃない。一人、また一人と、きっとこの家に──!  ボロボロと涙を流し、真鈴は声にならない悲鳴を上げて泣いた。

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