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「凜夏もきてよ」
アタルは幸福そうな笑顔で手招きしている。その顔を見て、わたしの心の中でなにかしらの糸が切れた。
「……うん、わかった!」
わたしは大きな声で言い、アタルのほうへ向かって歩いた。そして彼の身体を正面からグイグイ沖に向かって押した。少なくとも、彼のウエストあたりまでは海に沈めてしまいたい。
「え、凜夏、ちょっと」
アタルは戸惑いながら沖に向かって後ずさっていった。
彼女がいるならもっと早く言ってほしかった。そしたらわたしは早々にアタルを友人として割り切って、もっと別の恋をできたかもしれないのに!
そんな思いを込めながら、わたしはアタルの身体を押した。
しかしふいに、わたしは思い直す。
でも、聞いたところでアタルへの恋はやめられなかっただろう。わたしは一度始めたらなかなかやめられない、保守的な性格なんだから。
そしてわたしはアタルを押すのをやめた。すでに彼は、ウエストまで海に浸かっていた。
これで手紙は読めなくなっただろう。
〈アタルのこと、ずっと好きだったよ〉
いつもの水性ボールペンで書いたその文字は、アタルのポケットの中ですっかり消え失せているはずだ。アタルに洗濯された〇×ゲームの攻防パターンと同じように。
「やばい、びっしゃびしゃ」
「もう着ないんだからいいでしょ」わたしはアタルの胸のあたりに海水をバシャバシャとかけた。「最後だし、思いっきりはしゃごうよ」
「やめろー、スマホとかやばいだろー」
アタルが悲鳴をあげている。
「最近のスマホは防水だから胸ポケに入れとけば大丈夫だって」瑠奈が笑っている。「だから凜夏、もっとやれー」
「凜夏あんなキャラだっけ? 瑠奈の乱暴さがうつったんじゃねーの?」
三好のほうを見ると、彼は心配そうにわたしのほうを見ていた。
「だまれジジィ」
瑠奈が思いっきり海水をすくい、三好に向かって下投げをするような動作をした。次の瞬間、三好は頭から海水を被っていた。
「だからまだジジィじゃねーって言ってんだろ」
三好が大きな声で言い、瑠奈にお返しを食らわせる。
そこからわたしたちは盛大に海水をかけあった。はしゃぎすぎて、寒さや冷たさも忘れていた。びしょ濡れだから、わたしの頬をつたう涙も彼らには見えていないはずだ。
『叶わなかった思いこそが、その人の人生を豊かにするのです』
わたしは瑠奈の——いや、校長先生の言葉を思い出す。
アタルのポケットの中で消えた想いが、わたしの人生を豊かにする?
そんなことってあるだろうか?
そうだったらいいな、とわたしは思う。今はまだ立ち直れる気が全然しないけど。大人になって今日のことを思い出すとき、わたしはどんな気持ちになるんだろう?
わたしたちは夕日の下ではしゃぎ続ける。太陽はもう、ほとんど地平線に飲み込まれてしまっていた。
(了)
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