30人が本棚に入れています
本棚に追加
「春日さん、なにかいいことあったんですか?」
隣のデスクの井出に聞かれて、首を傾げる。
「いいこと?」
「朝からずっとにこにこしてますよ」
井出が自分の頬を軽く抓って見せるので、俺も自分の頬に触れる。
そうだったのか…気付かなかった。
「もしかして、彼女できたんですか?」
「いや、できてないけど…」
「けど?」
「今夜星を見る、約束を、した」
女性にモテたことのない俺に彼女ができたら、そりゃ平凡仲間の井出は気になるだろう。
だが違う。
彼女じゃないし、女でもない。
でもわくわくする。
大学時代に一度だけ彼女がいたことがあるけれど、その子との予定が入っていてもこんなにわくわくしなかった。
「それってデートの約束したってことですか!?」
「ちょっと違う」
「誰と? うちの会社の子ですか?」
「だから違うって」
デートじゃない。
ただ一緒に星を見るだけ。
昨日の満月は綺麗だった。
でも満月よりも実千のほうが記憶に残っている。
月明かりに照らされた実千はとても綺麗でかっこよくて…。
「素敵な時間を過ごせるといいですね」
「……うん」
「うまくいかないように祈ってます」
「だから…」
違うんだけどな…まあいい。
しかも、うまく“いかないように”、なのか。
背後から肩に手を置かれた。
見ると先輩の岸川さん。
「春日、資料ありがとう」
「いえ」
「それで、このデータ…ここからここまで、数字だけ欲しいんだけど」
「わかりました。すぐ送ります」
「頼むな。今夜のデートにちゃんと行けるように頑張れ」
「だから違いますって」
岸川さんまで…。
ほんとにデートじゃないんだって。
言ったって聞いてくれないだろうけど。
◇◆◇
昨日より早い時間に自宅最寄り駅に着いた。
どうしようか、と思い、一旦自宅に帰って着替えることにする。
帰る途中で買ったペットボトルの麦茶を二本持って部屋を出た。
公園に着くと、今日は滑り台ではなくベンチに実千がいた。
「星治さん、来てくれたんだ」
「一緒に星を見るって予定を入れてって言ったのは実千じゃなかった?」
「言ったけど、ほんとに来てくれるとは思わなかった」
へへ、と笑う実千は本当に嬉しそうで、ちょっと心臓が異常な動きをする。
持って来た麦茶を一本、実千に渡す。
「いいの? いくら?」
「気にしないでいい」
「ありがとう」
穏やかな喋り方。
実千の隣に座って空を見ると、綺麗な月と少ない星が見える。
昨日と違って少し雲があって月の前を通り抜けていく…それさえも綺麗で。
「星治さん、お仕事お疲れさま」
「? どうした、急に」
「ううん。来てくれたの嬉しくて…お仕事の後なのに、ありがとう」
「俺も実千と星が見たかったから」
「えっ!?」
夜なのに大きな声を出した実千に笑ってしまう。
自分で言ってたのに。
「あ、ごめん…近所迷惑…」
「それより、月や星が逃げるんだろ?」
「……」
ぽかんとした顔。
それから実千も小さく笑い出す。
「そう…そうなんだ」
柔らかい声。
昼間の元気な実千の声も、夜の穏やかな声も、どちらも耳に優しい。
「…ありがとう、星治さん」
なにが『ありがとう』なのかわからないけれど、実千が満足そうだから俺も心が温かくなった。
俺の手にするりと実千の手が重なる。
実千を見ると、悪戯成功って顔をしている。
「実千…?」
「しーっ」
俺の唇の前に人差し指を立てて、それから優しく微笑む。
実千の笑顔はどんな星の輝きよりも綺麗で、そのまま俺は固まってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!