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月夜のキス
会社帰り、自宅最寄り駅からの帰り道にある公園で出会った。
九時を過ぎてしまった。
帰ったらすぐに食事にしよう。
そんなことを考えながら歩いていたら、通りがかった公園の滑り台の上に立っている人影があった。
こんな時間に…?と思って見る。
子どもではないとはっきりわかる、背の高い人。
滑り台の手すりに手をかけて、夜空を見上げている。
なんとなく公園に近付くと、高校生くらいの男の子のようだ。
整った横顔がぼんやり見えるのが神秘的で、思わず見入ってしまった。
「……?」
男の子がこちらを見る。
満月の月明かりに照らされた姿は、とても美しかった。
ちょいちょいと手招きするので周囲を見回すけれど、俺以外に誰もいない。
俺か?と少し首を傾げると男の子は頷く。
もう一度手招きされて、滑り台に近付く。
大人になってから近くで滑り台を見ると、子どもの頃に遊んだときにはとても大きく感じたのに、思ったより小さいなと思った。
男の子は手すりから身を乗り出して、小さな声で言う。
「おにーさんも月を見てるの?」
「…いや」
「満月綺麗だよね。上がってきてよ」
「え」
滑り台へ上がれと?
スーツで?
でも男の子は微笑んで俺に手招きする。
仕方ない、と通勤バッグを肩にかけて小さい梯子を登っていく。
男の子はやっぱり高校生くらいで、背が高くて足が長くて、満月以上に見入ってしまうほどの整った顔立ちだった。
「おにーさん、ほら見て」
さらっと手を握られて戸惑いながら、言われたとおりに空を見上げる。
下から見るより月が少し近くて、思わず溜め息を吐いた。
「…綺麗だな」
「でしょ。ずっと見ていたい」
男の子に手を握られた状態でふたりで空を見上げる。
「……?」
視線を感じて隣を見ると、男の子は俺をじっと見ている。
まっすぐな視線に恥ずかしくなる。
見られることに慣れていないのもある。
「おにーさん、家は近くなの?」
「そこのマンション」
公園の斜め向かいに見えるマンションを示すと、男の子の表情が輝いた。
「俺の家の隣だ…。ねえ、名前教えて?」
「どうして?」
「だってせっかく満月が引き合わせてくれたんだから、“おにーさん”じゃ寂しい」
よくわからないけれど。
「春日星治」
「俺は黒澤実千。実千って呼んで、星治さん」
柔らかい口調の男の子…実千の唇から俺の名が出るのが不思議な感じだ。
でもとても心地好くて、ずっと聞いていたい穏やかな喋り方。
「星治さんは星が好き?」
「そう考えたことはないけど…」
「俺は好き。月とか星とか見てるとわくわくする。俺にとって夜空は宝箱」
「宝箱…」
なんだか可愛いな。
俺は自分の名前に“星”がつくけれど、だからと言って夜空をわざわざ見上げるようなことはほとんどした覚えがない。
小学生の理科の宿題で星の明るさとかそういった感じのものが出たときに見たのを覚えているくらいだ。
「……」
今の自分の状況を考えるととてもおかしい。
滑り台の上で高校生くらいの男の子に手を握られて空を見上げている。
うん、非現実的だ。
思わず笑いがこみ上げる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない…」
不思議そうな実千。
「俺はそろそろ帰るよ」
「そう? 寂しいなぁ…おやすみなさい」
「おやすみ。実千もあまり遅くまで出歩くなよ」
「子ども扱いしないでよ」
ふふっと笑う実千が妙に色気を孕んだ瞳をしていて、どきっとしてしまう。
梯子で降りようとしたら。
「滑り台なのに、滑らないの?」
「……スーツが汚れる」
「あ、そっか」
実千に見守られながら梯子に足をかける。
公園を出るときになんとなく振り返ってみたら、実千が小さく手を振ってくれる。
俺も手を振ってマンションに向かう。
帰宅して窓から公園を見てみたら、実千はまだ空を見上げていた。
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