プレゼント

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ここのところ、彼女のメイコがすんげー重たくってめんどうくさくって、まじでどうしてオレに好かれる努力をしないんだろうと不思議だ。 仕事が終わって家に帰ると、出迎えなんてないのが当たり前ただいまも無視されて、リビングに入って初めてメイコが登場する。ソファーでだらしなくスマホを見ているすっぴんの彼女が。眉毛はなく、肌は脂でテカテカしていて、シミが目立つ。目の前には食べ物とアルコール飲料が置いてあり、ぎゃあぎゃあと濁った声で笑ったり叫んだりしている。可愛くする必要はないが身だしなみというものがあるでしょう、と言うと、メイコはオレの顔を五秒見つめて鼻で笑った。メガネをくいっと上げてオレの顔を見て口角を上げるメイコの顔からは、オレに対する悪意がにじみ出ている。 仕事はしているようだが、不規則で料理も掃除もあまりしない。オレもあまりきれい好きではないが、さすがにどこを歩いても髪の毛やほこりがつく部屋でくつろぐことも、ヘドロの溜まった鼻をつくにおいの中で食事をとる気にも、クソのこびりついた臭いをきつい消臭剤で蓋をしたトイレで用を足すことも、そもそも生活する気にもなれず、明日への活力を復活させるなんて夢のまた夢だった。 家事は全部全部全部オレが担当することになっていて、本当に毎日がしんどくて少しはやってほしい手伝ってほしいということを伝えると、メイコは一言「なめてんの?」と低い声でつぶやいた。 「私がほとんどやってるでしょうが。全部やれとか舐めてんのか」 「何も舐めてなんていないじゃないか」 メイコの迫力に負けじと大きな声を出そうとしたが、少しのどに引っかかって声が裏返った。おかげで、声が震えて、まるで老人のようなフヨフヨのヨレヨレ声で、落ち着けおれ別にお前にビビってるわけじゃないんだぞと見せなければ、と場を仕切りなおす気持ちで大きく息を吐くと少し落ち着いたような気持ちになれたが、それは一瞬でメイコの鋭い目つきに息が止まった。 オニババやん。思わず口からこぼれた瞬間、メイコの顔がひどく充血したように見えた。そうなるとますます赤鬼のように見えてくる。にらんだ眼はもはやにらみすぎて白目で、え、この人白目になってるけどどこ見てるの?人って怒ってるとこんな白目になるの?という疑問のみが頭の中を占拠、この腹の底からこみ上げる笑いをどうしたら止められるのか、自分でもわからなくなった。 メイコは白目のままオレをにらむと、「お前、自分だけがやってると思ってるのか」と地響きするような声でつぶやいた。オレは、「そうはっ、思ってないンフけど」と笑っていないようなすました顔をして答えた。 メイコはオレが笑いをこらえきれていないことには気が付いていないようで、ますます面白く、っていうか怒ってる人ってどうしてこんなに面白いんだろうか。冷静さを欠いて、オレをどうにか言うことを聞かせようとして必死なさまがひどく間抜けでおもしろく、ますます笑いは加速していった。 口の中をかむだけでは抑えきれなくなって、一気に噴き出すと、よじれた腹を抱えて、オレはのたうち回った。怒った人の前で爆笑なんて、自分の未来は真っ暗だ。そう思えば思うほど、なぜかおかしく笑いは腹の底だけでなく、手指の先からビリビリと電流を流されるように体の中に入り込んできて、オレは世界の笑いがただ一心に集まるような、笑いの避雷針みたいな気分になった 息を吐き切ってまた限界まで吸って、横隔膜は限界まで痙攣していて、笑いで窒息するなんて嫌だなあとぼんやり考えたころに、どうにか息が吸えるまで落ち着くことができた。 メイコはオニババからいつものメイコに戻っていて、真顔でうつむいていた。そしてそのまま静かに部屋にもどってしまった。 翌日以降、昨日の言い合いなどなかったような普段通りの生活だった。 にこやかに笑い、食事をし、仕事に行って風呂に入って眠る。顔を見れば話をするが、しかしメイコの顔は張り付けたような笑顔だった。 「怒ってる?」 「怒ってないよ」 「いや怒ってるよね?」 と問うた。メイコ顔から漂う贋物くささ、嘘くささが鼻についたからだが、メイコは 「怒ってないよ」 と笑い、はい、と畳んだ洗濯物を渡してきて、「しまってきてね、自分のなんだから。」とオレに家事を頼んできた。 オレはメイコに失望した。出勤前のごみ捨てもやっているのに、洗濯物をしまうのを頼んできたのだ。あんなにも、もう家事はできないと言ったのに、洗濯物をしまうことまでも頼んできて、メイコはもうオレのことなんて好きじゃないんだろうか。あんなに「家事はこれ以上増やさないでくれ」と訴えたのに、オレの気持ちは無視されている。 肩を落としたオレを無視して、メイコはバタバタしていた。要領の悪いメイコは普段からずっとバタバタしている。オレは要領がいいので洋服をしまうと椅子に座ってゆっくりコーヒーをすすっていた。メイコに入れてもらったコーヒーは温くなっていたので、メイコに「ぬるいよ」と伝えようと振り向くと、何か言いたそうなメイコがこちらを見ており、目が合うと舌打ちして今度はドスドスとどこかへ駆けて行ってしまった。 言いたいことが言えず心がもやっとしたがさして気に留めないようにしたが、ときおり感じる刺さるような視線にいつか自分が視線じゃなく刃物で刺されるかもしれないという思いがこみ上げ、そうなるともういつ刺されるか分かったものじゃないと背後をバタバタドスドスと走り回るメイコが気になってしまい、逃げるようにトイレに入った。ズボンをはいたまま便座に腰掛ける。綺麗好きだから本当は服のまま便座に腰掛けることなんてしたくないが、用をたしたいわけでもないからこうする以外の方法を思いつかず、腰掛けている。トイレは相変わらず汚れていて、きつい消臭剤の臭いに酔いそうになる。しばらくは換気扇をつけて我慢したりもしたけど、トイレには長い間居られなかった。トイレから出て思わず「トイレ汚れてるし臭いよ!」とメイコに伝えたが、メイコは贋物臭い笑顔で「自分ですればいいんだよ」と言って、風呂に入ってしまった。 オレは脱力して洋服を着替えた。洋服のまま便器に座ったのが気になったのだ。家事をふやさないでくれと言ったのに。しかし意見を言おうものならいつかまたこの間のように恫喝されるかもしれない。そう考えると、自分の時間を有効に使っているだけなのに息が詰まりそうだ。いつかもっとかわいい女の子と、お互いに慈しみ合い、家事を折半しあい楽しくほがらかに生活していきたい。と夢想するようになった。 浮気なんて最低なやつがすることだと蔑む気もありながら、職場にアルバイトの女子大生がやってきたときは、少し心が躍った。その女子大学生がオレと話すときには笑って楽しそうにしていてくれるのが、とても楽しくまた新鮮な気持ちになった。 メイコはそれを聞くと顔を赤黒くさせて何やら大きな声で話して白くなると、様々な家事の追加と約束事をさせられて、オレの自由はなくなっていった。 そうして、また新たにアルバイトが入社してきた。今度はフリーターの女性で見た目から察するに若く、おそらく二十代前半だった。 本当に笑顔が素敵で、楽しく歓迎会も終わったころ、この話をしてまたメイコに怒られた。オレは何もしていない。ただ歓迎会の話をしただけなのに、また家事をふやされ、そうしてセックスレスの話になった。 メイコはオレとセックスがしたいと言った。オレはそれを聞いて下半身が冷えるのを感じた。メイコはオレから「お前では勃たない」と言われたことをとても気にかけているようだったから、「そういうところだよ」と言ってみたが、納得できないようだった。 「だから、オレは以前も言ったと思うけど、まずこういう話をするのが好きじゃない。いい?だいたい、いつもなんか雰囲気でそういう感じになるじゃん」 「そういう雰囲気でそういう感じって?」 「だから、そういうとこ」 「なにが」 「ほんとにわかんないの?なんでそんなに鈍感なの?」 「だからなにが?」 「だから。お前は本当にデリカシーがないやつだな。こういう話は普通しなくってもわかるもんなんだよ!」 メイコはまた真顔になってしまった。 ふつうさー、こんなお互い興奮しているときのことって覚えてる?怒っているときの言葉って覚えてないよね?こう、雰囲気で言ってることもあるじゃん。『このバカ!』と怒ったとして、あとから『じゃあなんでここでバカって言ったんだろう?』ってなる?ならないよね?中学生のころ読めないくせに、分かってるふりして岩波文庫読んでた理由なんかを、あとからしっかり考えるなんてできますか?しかも冷静に。そういう、自分のしでかしたことをあとから冷静に考えるって、結構馬鹿げてるし恥ずかしいじゃん。 オレの頭の中でぐるぐる考えたことを自分の口から話すとメイコとセックスレスの話を続けることになってしまう。オレはそれだけは避けたいと思い、デリカシーのない話はしたくない、という体で行こうとしたが、メイコが 「私はこの問題を解決したいと思ってる。だから話し合うしかない。あなたは感情的になっていて、話すことすらできない」 とどこかで借りてきたような、メイコじゃない言葉で話し始めた。 メイコが、ますます蝋人形のようにはりぼての人間になったような急に言葉が通じない何かになった気がして、こいつこんなんだったかなとわずかに、いやだいぶ面倒くささを感じた。感情的なのはメイコだし、オレの「話をしたくない」という言葉を一切聞かず話始めようとするのもおかしいし、「察してほしい」ということの何がそんなに変なのか。 誰にだって、話したくないことはあるはずなのに、そこをどうして掘り下げるのか。 オレは一瞬でもメイコと一緒にいたくないと思ってしまったことがすごくショックで、そう思わせるメイコが憎く、以前のメイコを返してくれと声にになりそうなのを押さえて、自室に戻った。何度深呼吸しても嫌な気分は晴れなかった。 翌日メイコに会わないように素早く職場に行くと、また新たなアルバイト女性が入社するようだった。 その女性は、人懐っこくどんな話でもニコニコ聞いてくれた。あまりに素直に話を聞いてくれるので「メイコがこうだったらな」と考えているうちに、彼女といい感じのそういう雰囲気でそういう感じになった。 そうそう、こういうやつだよ。言葉で言い合わなくてもいい感じでいくやつ! オレは心の中でガッツポーズを決め、しかしオレが忌み嫌っている浮気というやつをいつの間にか自分がしていたということに多少の驚きはあったとはいえ、まあ仕方ない、そういうこともあるよね人生なにがあるか分からないし、と思い直すと同時に、自分の魅力に少し自信がつき、おそらくこのまま彼女と付き合うことになるし愛されると思うと、前途は明るく見えた。 メイコと同棲しているアパートと、浮気相手の彼女のアパートの二拠点での生活は、ほどなくしてメイコと浮気相手にばれて、オレはメイコと別れ、浮気相手だった彼女とは同棲することとなった。 すると彼女は、同棲するにあたり、しっかりルールを決めようと言ってきた。 オレはルール、もといなんでもかんでも言葉にすることはメイコとの同棲で飽き飽きしていたし、正直そんなことは決めなくても困ったときに困った人が解決すればいいと言ったら、何やら不満そうではあったが、 「分かった。じゃあ、ひとつだけ」 と言って、彼女はオレに抱きつくと 「絶対に、元カノとは連絡をとらないで」 と目が笑ってない笑顔で顔を近づける。オレは何も言わずに、彼女の唇にそっとキスをした。 彼女との同棲は、束縛が強めであること以外には快適で、彼女も年下で肌がきれいで抱き心地も最高、セックスの相性も良く、オレは勃たないと悩んでいたあの日は一体なんだったのかと考えていた。 彼女は人の気持ちを読むのがうまく、さみしいな今連絡がほしいなと思った瞬間、連絡が来るし、離れたいと思うとほどよい距離感でいてくれるし、彼女の作るお弁当には必ずポーチが付いていて、そこには今オレがほしいと思ったおやつが入っていた。言葉で伝えなくても心でつながっていることがオレの心の安寧に役立っていた。 家でも一緒、職場でも一緒で、ずっと一緒なのに居心地がよかった。メイコと付き合っているときの、言葉で伝えよと言われた時の、過去の自分を振り返る瞬間の苦しさを思い起こしては、あのときには戻りたくないと思ってしまう。 「大事なことって、言葉じゃないと思うんだよね」 彼女はオレに抱かれたままうなずくとキスを求めてきたが、オレは今はしたくないので 「そう言えば」 と気が付かないふりをした。 「オレの今食べたいなって思うものがポーチに入ってて、すごいなって思うけど、どうしてオレの好みがわかるの?」 すると彼女は笑って、わかるよーと言った。 「実はそのポーチにはおまじないがかけてあってね。私とあなたをつなぎますようにって。だから欲しいものが入ってるんだよ」 「もし、そのポーチを忘れたらどうなるの?」 オレの意地悪な質問に彼女はうーんと考えてから 「大丈夫、そういう時はポケットを見て。きっと入ってるから」 と笑った。その上目遣いのうるんだ眼が可愛く、オレに愛されようとおまじないまでかけているのがいじらしく、オレはああ、今したいなと思った。ので、しっとりとした手つきで彼女の体を撫でると、彼女はそこからするりと抜け出し、「おやすみ!」と言って部屋に戻ってしまった。オレは気持ちが収まらずに、そのまま自室でマスターベーションをして、排出された精液をティッシュで包んだ。ベタベタして気持ちが悪かった。 翌日、会社からの帰り道に寄ったコンビニでメイコに会った。メイコはオレだと気が付いた瞬間に眉間にしわを寄せたが、すぐに逃げ出すでもなくゆっくりと買い物をしていたので、そろそろと近づいて声をかけてみることにした。 「久しぶり」 メイコは、こちらを向かずに「はーい」と言うと、買い物かごにおやつを入れていた。じっくりと選んでいたので、 「食べるの?」と聞くと、「そうだよ。」と言う。 「彼氏は?」 「いないけど」 「お前まだ彼氏いないの?」 笑うつもりなどなかったのに、ちょっとほっとして気が緩んで笑ってしまったせいでメイコににらまれてしまった。また怒られると言い返す準備をしていると、メイコは 「そういうの、感じ悪いから」 とため息をついた。 「怒らないの?」 「怒る必要なんてないじゃない。疲れるだけだよ」 「でもさ、友だちにだったら言うだろ」 「ふーん。友だち、ね」 メイコはオレを見ずに、目の前のスイーツを手に取るとまじまじと見ている。 メイコの言葉は普通だったけど、オレは突き放された気がして、そしてなぜ傷つけるようなことを言うのかと問い詰めたくなった。復讐のつもりなんだろうか。新しく彼氏も作らないで。 メイコはスイーツを二つ選んで立ち上がる。 「ふたつって誰の分?本当は彼氏いるんじゃね。」 「自分でふたつ食べるのよ。」 するどい眼光と声の冷たさに固まっていると、 「自分のしたことは全部返ってくるんだよ。彼女のこと、大切にしなよ」 と説教臭いことを言うと、レジで金を払って出て行った。 コンビニを出て自宅へ戻るところで、いきなり腕を掴まれた。驚いて振り返ると髪を振り乱した彼女で、目が血走っている。「どうした」と言う間もなく、 「今の元カノでしょこの間まで付き合ってたどうして会うの?もう会わないって言ったじゃない」 大声でオレに怒鳴りつけ、握った拳でオレの胸を叩いた。正直面倒くさいという気持ちと、どうしてそんなところを見られたのかと自分の間抜けさに腹が立つが、そもそもの話、こいつがコンビニでオレがメイコと話しているのを見たのが悪いのではないだろうか。 オレはメイコを追いかけたわけでもない。たまたま入ったコンビニにたまたまいただけだ。そりゃメイコがよく行っていたコンビニだから、もしかしたら会えるかなと思ったことがないわけでもない。そういう期待はあったけど、それは「会えたらいいな」であって、「会いに行く」ではないということを視野に入れオレのことを理解してほしい。 彼女は大声でぎいぎい泣くので通行人はじろじろとお構いなしにこちらを観察してくる。どう声をかけるかぼんやりと考えていると、しびれを切らした彼女が「もういい!」とドラマさながらの捨て台詞とともに走り去って行った。残されたオレは、通行人の視線を振り払い、走ってアパートへ向かった。 アパートには、彼女はいなかった。オレは持っていた鞄と弁当箱の入ったカバンを放り投げると、弁当は音を立てて転がった。薄暗いアパートの電気をつけて椅子に座り、明日から一人かな、弁当はどうしよう、彼女弁当だけでもくれないかなと考えた。あの「私とあなたのつながっているポーチ」が途端によく思えてきてたのだ。 明かりもつけずにぼんやりと椅子に座っていると、かすかな音が聞こえてきた。それは弁当箱の鞄からで、何か入っていたかなと開けてみると、ポーチが大きく膨らんでいた。 ポーチを開けると、そこには一万円札から小銭までたくさんの現金と、オレが彼女にプレゼントしたブランドのブレスレットが入っていて、は、とか、え、とか言っている間に、それが少しずつ増えて行っているように見えた。 大金は何に使ったやつかはわからないけれど、彼女とたくさん外食したり遊びに行ったりしたときに使ったなと思い出していた。付き合い初めのころは、おしゃれを意識した居酒屋に行ってみたり、おいしいと評判のかわいいカフェに行ってみたり、部屋付き露天風呂のある旅館に泊まったりしていた。このブレスレットは、彼女と付き合ったときにプレゼントしたやつで、本当は指輪がいいと言っていたけど、オレが金を出すのだからとブレスレットにしたやつだった。 これは彼女と付き合い始めのころ、誕生日に送った花だった気がする。花粉症だからいらないという彼女に、ぜひ受け取ってほしいと無理に渡したやつだが、彼女も笑顔でありがとうと受け取ったやつだ。 部屋中を花の匂いが漂っていた。 少しぼんやりしているだけで、ポーチからはどんどんあふれでてくる。 あふれ出てくるものが、どんどんと小さくみすぼらしくなっていくのを見て、あれ、こんなものを渡していたのかなと首を傾げた。 そうして、しばらくするとポーチは静かになった。オレは急いでポーチを閉めて、ビニール袋に入れてコンビニに走り、ゴミ箱に叩き入れると、また走って家に帰ってきた。 息が弾んでいて、しばらく部屋に寝転んでいると、だんだん気持ちも落ち着いてきた。 起き上がり、着替えるために、仕事着を脱ごうとしてポケットに手を入れると、何か生ぬるいものが手に触れた。慌てて手を引っ込める。薄緑の仕事着の中に何か入れたのだろうか?オレはおそるおそるポケットを叩いたが、何の反応もないので、もう一度ゆっくり手を差し入れる。 手は、何か生ぬるい液体に触れる。それはほんの少しだけのようで、オレはティッシュをポケットに突っ込んで、何度かこすった。 ポケットの中を何度か確めて、何もなくなったことを確認して、ふとティッシュを見る。 拭きとった液体は白濁していて、オレは、彼女に最後にあげたものがこれだったのかと思うと、彼女はそれでも喜んでいたから良しとしようと考えた。 オレは暗い部屋の中で、椅子に座ると、彼女はいつ帰ってくるのだろうか、もしかしてもう帰ってこないつもりなのか、明日の食事はどうするのだろうかと再び考えて、あのポーチを捨てなければ、オレと彼女はまだつながっていられたのかもしれないと考えた。 いつの間にか日は完全に沈んでいて、オレだけが一人暗闇に取り残されている。
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