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軽い夜食を食べてから、谷山さんが帰宅したのは、夜もだいぶ更けてから。
フェイドラさんが送って行こうとしたのだが、
「いや、今日はタクシーで帰るよ」
という彼の言葉に、私たちは、あえてそれ以上は何も言わなかった。
タクシーを見送ってから、部屋に戻る。
私とフェイドラさんがテーブルの上を片付けている間、拓人さんはソファに座ったまま、何かを考えている。声をかけるのもなんとなく憚られるような気がして、私は食洗器で洗ったお皿を乾いた布で拭いていると、
「フェイドラ、葉月さん、もう少し飲みたいって言ったら、怒る?」
と、声をかけられた。振り向くと、弱く微笑んだ拓人さんがこっちを見ている。そこそこ、お酒が入っているから、顔が少し赤いな。
私のとなりにいたフェイドラさんと顔を見合わせてしまう。でも、フェイドラさんが小さく頷いて、洗ったばかりのグラスを再び、取り出して、お気に入りのウイスキーでハイボールを作る。
私は少し手持無沙汰になっちゃったけれど……なんとなく、拓人さんの様子が気になって、テーブルを挟んで、拓人さんと向かい合うカタチで床にあった少し大きめのクッションに座る。
軽いおつまみとハイボールの入ったグラスを拓人さんの前に置いてから、フェイドラさんは、お店の厨房へと降りて行った。
カラリ……と、グラスの中の氷が音をたてる。
琥珀色の液体が、部屋の灯りに照らされている。
「中野先生が亡くなったこと、かなり堪えているみたい」
「拓人さん……」
「先生には、本当に……本当にお世話になったから。タニさんやボスと同じくらいお世話になったから。今の仕事を続けているのは、中野先生からのアドバイスもあったからなのよ」
ボスというのは、拓人さんや谷山さんのお仕事先でもある録音スタジオのオーナーさん・松本光吉さんのことだ。
グラスを手にして、ひとくち、飲む。
私も、炭酸水をカップに注いであったので、それを飲む。
誰に言うとでもなく、拓人さんがぽつぽつと話しをしてくれる。
最初に会った時、中野先生は、拓人さんの外見にもまったく驚かず、ニコニコと笑顔であいさつをしてくれたとか。その後、先生の立ち合いで、先生の作曲された曲を録音することになって、ブースでうたう彼に、
「あなたは、とてもいい声をしているね。伸びのある、透明感のある声。なるほど、松本くんが言っていたのは、このことなんだねぇ」
と、言ってくれたのだそうだ。うたい手としては最高の誉め言葉だろう。拓人さんが、表向きを「プロのうたい手」として仕事して行こうと改めて心に決めたのは、その時からなのだとか。
「うたい手としての藤宮タクトの恩人のひとり……ね」
そう言って、グラスの底に残っていたものを飲み干した。
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