ポケットの中の煙草

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「もう終わりにしたい」  先にそう言ったのは彼女だった。 「君がそう言うならそれでいいさ」  そう答えたのは俺だった。  そう言ったとき、彼女の眼がぎらりと光った。 「あなたは……いったい……」  そう言いかけて、結局やめた。  何を言おうとしたかはだいたいわかる。  以前から荷物を整理していたのは知っていた。彼女は十分ほどでそれらをまとめ、そして出て行った。    喪失感の中に、ほっとしたような感覚が混じっていた。   いや、逆か。  500ミリリットルの安堵のなかに、数滴の喪失感。  悲しかった。悲しいはずだった。  だがそれがどういう種類の悲しみなのか、俺は掘り下げるのが怖かった。    幸せなふりをずっと続けていた。幸せというのが何なのか、少しもわからないままに。  自分は今幸せなのだと、朝目覚めるたびに自分に言い聞かせながら。    良い人のふりをつづけてきた。  だから良い人だと誤解された。  良い人をやめることができなくなった。  少しの誠実さもないまま、俺は微笑み続けた。  そうしているうちに何かが変わると思っていた。本当の良い人になれるような気がしていた。   実際には、日ごとに息苦しさが増していくだけだった。    だが、もうそれも終わりだ。  俺はタバコに火をつけた。ポケットの中にずっと入っていたタバコだ。  俺は本当に悲しいのだろうか。  悲しくなくてはいけない、そう思っているだけではないだろうか。  煙を深く吸い込み、そして激しく咳き込んだ。  最後にタバコを吸ったのは何時だったろう。  思い出せなかった。  以前の俺は、本当にこれを美味いと思っていたのだろうか。  それさえもわからなくなっていた。  咳がとまらなくなって、そのせいで目尻に涙がにじんだ。  それはただそれだけのことだ。  だが俺は、自分が泣いていることにほっとした。    
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