右手の温もり

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 少年が小学校六年生になったばかりの時に、二人は初めて出会った。  少年がチョコを食べて、そのゴミを買ったばかりのデニムパンツの右ポケットに入れた時だった。  ポケットがゴミを入れられたショックと、苦手な甘い香りを嗅がされて激怒したのだ。ポケットが急に暴れ出したので少年は驚き、叩いたり、引っ張ったりして乱暴を止めようとしたのだが、そんなことをされたポケットはさらに激怒し、より一層、主に少年の太ももを叩く形で暴れたのだ。  頭の固い大人ならば、家に帰って気味の悪いズボンを脱ぎ、ゴミ箱に投げ捨てて終了だが、少年はまだ少年だった。自分がゴミを入れたからポケットが怒ったことに気が付くと、すぐにゴミを取り出し、ティッシュを使って中をよく拭いた。  少年とポケットの関係は、最初から友情と呼ぶ程のものではなかった。少なくともポケットに友人を選ぶ権利はなかったし、少年はペットよりやや下の存在としてポケットと接していた。具体的には、ポケットが甘い香りが苦手で、金属の臭いと冷たさが好きだということに気がつくと、少年はポケットに家の鍵を入れる習慣を作った。何故ならば、そうして借りを作っておくと、ポケットの中に手を入れた時に、ポケットが手を温めてくれるからだ。洗濯機の中でグルグル回転させると、次の日ポケットの体調が悪くなり、右側だけが異様に冷たくなるので、仕方なく洗濯の回数を減らし、洗うとしても手洗いを心掛けた。そのような、貸し借りの関係に過ぎなかった。  だが、元々ポケットは独りぼっちだったし、少年も六年生の新クラスではいじめにあい、クラス中から気持ち悪がられて、独りぼっちになった。友情からくる優しさでは決してないが、周囲から攻撃されながら孤独に生きる少年の気持ちが少しわかったので、ポケットは少年が右手を入れた時に、精一杯温もりを込めることにした。学校を行くのをやめるか、屋上から飛び降りるかを考えていた少年にとって、右手の温もりは涙が溢れる程優しい温もりだった。  「お前のことが嫌い。はい、いいえ」クラス全員がはいに投票した手紙が、授業中に少年にまわってきた時にも、ポケットに手を入れて、泣き出すのを堪えた。  休み時間に筆箱を女子トイレに投げられて、散らばった鉛筆を床に這いつくばってかき集め、男子からは笑われ、女子からは嫌悪と侮蔑を向けられた後にも、一人で泣きながらポケットに手を入れ、二人で泣いた。  ある日、少年はいじめの主犯格らに、ポケットに手をいれるのをやめろ、と言われた。少年は拒絶した。これ以上嫌われなくなかった少年は、彼らの要望をこれまでは全て受け入れてきたが、ポケットから手を出すことだけは断固として拒絶した。それならばポケットを破るぞ、とハサミを持って脅されたが、少年は拒絶した。本気だぞ、と言って主犯格らが詰め寄ってきたが、少年は譲らなかった。  少年は勇敢に戦った。  少年は中学生になった。中学生になると、身長が伸び、小学生の頃のズボンは履けなくなった。それから、好みも変わった。それまで着ていた服はダサいといって捨て始めた。  ポケットがいるズボンも、捨てられることこそなかったが、上に新参者らを積まれて、履かれることはなくなった。  ポケットは少年に見返りを求めてはいなかった。あれだけ温めてやったのにこの扱いか、とは思わなかった。履かれることがなくなっても、それを自然として受け止めていた。だが、孤独は寂しかった。自分もまた、少年の手で温められていたことに気が付いていた。もし今、少年の手が自分のところにきてくれたなら、また精一杯温めよう、と妄想した。  だが、ポケットの思いが伝わることはなく、ある日、一年ぶりくらいにパンツの山から引っ張りだされた時、少年は裁ちばさみを持っていた。勢いよくズボンが切られていく。ポケットは氷のように冷たく、そして湿った。  少年が勇敢に戦った理由を、ポケットは勘違いしていた。自分を守るために彼が戦ったのだと思っていた。  今、ポケットは少年のリペアバッグになっている。青年となった少年を温め、また青年となった少年に温められている。
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