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第3話
「ですから! あなたをそこへ案内するつもりはございませんわ」
「それはどうして?」
彼の目つきが変わった。
紅く細い目が、艶やかな色を帯び怪しげに光る。
「それは寂しいですね。ようやくこうして、二人きりになれたのに」
「どうして二人きりになる必要があるのでしょう」
「昨夜の出来事をもうお忘れですか? もう一度会いたいとお約束をして、こうしてあなたの方から来てくださったのに」
「あら。それをおっしゃるのなら、聖女目当てという大罪の方はどうなるのです? 今すぐ周囲に触れ渡して、城にいられなくすることも可能ですのよ?」
リシャールは壁際に私を追い詰めると、そこに腕をついた。
「私は王子としてここへ招待されている。それをあなたに、追い出すことが出来ますか?」
外交問題にまで発展する可能性のあることなんて、こっちだってちゃんと知ってる。
だから黙ってるのに!
「早々に私にバレてしまったのが、運の尽きでしたわね」
「いいや。逆に仕事がやりやすくなった。互いに賢くしていましょう」
冷たい視線を向けたまま、彼の手が私の髪に触れようとしている。
その手を素早く払いのけると、くるりと背を向けた。
彼をその場に残して歩き出した私を、リシャールは何食わぬ顔で追いかけてくる。
「おや。本音を言うなら、エマさまの寝室をお願いしてもよかったのですよ」
「まぁ、一国の王子ともあろう方の発言とは思えませんわ」
「それとも、あなたのお部屋を聞いた方がよかったかな」
言い慣れたような口ぶりで、誘うように私を見下ろす。
「私の部屋は……。もちろんご存じでしょうね。あなたならいつでも歓迎しますよ」
これだから男ってのは!
思わずカッと赤くなった私を、クスクスと笑っている。
これくらいのことで私ならどうにかなると思うなんて、バカにしすぎ。
「しかし、立派なお城ですね。城壁に囲まれた、一つの町のようだ。この高い壁の向こうにも多くの人々が暮らしているだなんて。レランドとは大違いですよ」
あの誘い文句は冗談だと分かっているのに、心臓は勝手に早鐘を打っている。
今の自分を、絶対に誰にも見られたくない。
彼を無視したまま、足早に階段を駆け下りる。
スカートの裾を持ち上げ走りだしたいのを我慢しているのに、なかなか王子は諦めてくれない。
回廊をどこまでもついてくる。
「あぁ、ここからだと城内がよく見渡せますね。この城は迷路のような造りをしている。迷い込んだら抜け出すのに苦労しそうだ」
空中回廊の角を曲がろうとして、不意に腕を引かれた。
柱に背を押しつけられ、腕の中に閉じ込められる。
紅い目が視線の先にまで近づいて、耳元にささやいた。
「ここから、私の部屋がよく見えます。西門近くの、芝生が広がる庭園前にご用意していただいた部屋です」
そんなこと、わざわざ説明されなくても分かる。
腕の中から逃げ出したいのに、体が動かない。
彼の話す吐息が耳にかかるのが、とんでもなく居心地悪い。
視線を反らせたまま、何とか返事を返す。
「あら、そうだったのですね。知りませんでしたわ。あそこは日当たりもよく、遠くからいらした使節の方がよく使われるお部屋です。設備も整っておりますし、お気に召したのであれば幸いです」
「つれないお言葉ですね。このままでは寂しくて死んでしまいそうだ」
彼の指が私の髪をすくい取ると、そこにキスをした。
「眠れない夜を過ごしているのを、あなたに慰めてほしいとお願いしているのです」
「私にいくらそんなことを言っても無駄ですわ」
触れられた髪を、さっと掴んで引き戻す。
「殿下は絶対に、私を好きになったりしないので」
「おや、どうしてそう思うのです?」
「私もあなたに、好意を抱く可能性は全くありませんの。当然ですわ。早く諦めて、ご自分の国にお帰りになった方がよろしくてよ」
王子から逃げるために、無駄に城内を歩き回っていた。
この角を曲がれば、パンを焼くための部屋がある。
彼の指が頬を滑った。
「そんな酷いことばかりおっしゃるのなら、私も我慢出来そうにな……」
ドンと彼の胸を突き飛ばす。
腕から逃げ出すと、すかさず角を曲がり作業部屋へ入り込んだ。
即座に内側から鍵をかける。
パンをこねていた職人たちは突然入って来た私に驚いていたけど、一言謝って急いで通り抜けた。
「ごめんあそばせ。ちょっとだけ通らせてくださいまし。あ、なにがあってもあと5分は、その扉を開けてはいけませんよ」
裏口から外に出る。
彼といた回廊とは別の通路へ出た。
ようやく引き離すことに成功した私は、聖堂へ向かい足を速める。
びっくりした。
何よあれ。
あんなの絶対王子なんかじゃない。
真っ直ぐに顔をあげ、回廊を進む。
私はあの人に好かれることはないのだから、大丈夫。
そんなことより早く聖堂へ行って、みんなに注意しておかないと。
あの人の甘い口車にのって、簡単にレランド行きを決めてはダメよって。
いずれ彼は聖堂へやって来るにしても、先回りしておけば何とかなる。
リシャールを巻くために、随分と寄り道をさせられていた。
そうでなくても世界樹への祈りに同席した上に、慰霊碑も訪れていたおかげで、大幅に遅刻している。
遅れるという連絡は入っているかもしれないけど、急がなければ。
キョロキョロと辺りを見渡し、後を付けられていないか慎重に確かめながら進む。
幾重にも折り重なる空中回廊の最後の橋を渡り終え、ようやく地上へ降り立った。
南門近くにある広場へ急ぐ。
石造りの建物がひしめき合う城とは少し離れた、城壁沿いの緩やかな丘の上にそれはあった。
三階建ての石造りの聖堂は、入城を許された聖女候補者たちが聖女としての振る舞いを身につけるための学校のようなところだ。
入り口横には世界樹の若木が植えられ、専用の植物園も併設されている。
私は芝の小道を駆け上がると、勢いよくその扉を開いた。
「ごめんなさい! 今朝は大変遅くな……」
調剤室に、リシャールがいる!
「おや。ルディさまも、聖堂にご用があったのですか?」
「どうしてこちらに!?」
「近くにいた衛兵に場所を尋ねたら、親切に教えてくれました」
まるで今日ここで会ったのが、本日初めての顔会わせであるかのように、にっこりと微笑む。
私はしっとりと汗ばんでいるのに、彼は涼しげな顔で壁の戸棚に並ぶ大小様々な瓶を見上げた。
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