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第7章
森田が自宅のマンションのポストを覗くと、そこには珍しく封筒が投函してあった。そこでダイヤル式の鍵を開けてそれを取り出すと、それは自分宛ての手紙だった。
いや違う。それには切手が貼られていなかった。するとそれは誰かが直接そのポストに忍ばせたものだった。
封筒の表には「森田しおり様」と印刷してあった。しかしその裏には差出人の名前がなかった。森田は少し怖かったが、それは封をされていなかったので中に収められていた便箋を思い切って引き抜いた。
「君を見つけた」
するとそこにはそう書かれてあった。
(何これ?)
森田はその文面を見た途端、背筋に寒いものが走った。
(誰がこんなものを入れたんだろう?)
森田はそう思った。しかしすぐに先日の電話と同一人物だろうと思った。そして次に思い浮かんだのが新宿駅で自分のことを知っていると言って来たあの男のことだった。
(これは同一人物だ。そして犯人はあいつだ)
森田は秋山のことを思い出すと、こんなことをするのは、あの男以外にはあり得ないと思った。それは秋山と出逢う前にはこんな悪ふざけを受けたことがなかったからだ。
(抗議の電話をしてやろう)
秋山の勤め先の電話番号は彼からもらった名刺に書かれてあった。そこで早速電話を掛けた。しかしその日秋山は休みを取っていた。それで上司を電話口に呼び出して文句を言ってやろうかと思った。しかし秋山がこの手紙を投函したという証拠はなかったので、仕方なくその電話を切った。
第8章
森田は大学である講義を受講していた。しかし彼女はその大学の学生ではなかった。たまたまその大学の文化祭に行った時にその講義が行われていることを知って聴講していたのだ。
それはボードレールの詩を解説する講義だった。森田は高校の時、ボードレールの「通りすがりの女に」という詩に触れて以来、彼の虜になった。すぐに本屋に走り、そして「悪の華」という詩集を購入した。そしてそれを上京する時も持って来ていた。
森田は最初、その講義がどんなところで行われるのか興味をもった。そこで構内を探しまわると、それは大きな階段教室であることがわかった。
(ここならいいかも)
それはその広い場所だったら、自分のような者が一人紛れても決してばれないと思ったからだ。
しかしそうは言っても実際に行動を起こすと緊張した。隣に座った学生が森田を指差して、ここに部外者がいますと叫ばないだろうかとか、教授が教室に入って来るなり一人一人の顔を確認しながら出欠をとるのではないかと思ったからだ。
しかしそのような心配は必要なかった。隣は空席だったし、どこに誰が座るかも決まっていないようだった。そうであればそこに出席する学生の顔などみんな覚えていないかもしれないと思った。
森田の2つ右隣の学生は着席早々机に伏して寝てしまった。それから教授らしき人が講義開始時間からかなり遅れてやって来ると、いきなり講義を始めた。それで森田はそこが安全な場所だということを確信した。
(これでバイトの面接で言ったことが本当になった)
講義が終わって教授が教室から出て行くと森田はそう思った。と言うのも、森田は今のバイト先に自分は大学生だと嘘をついていたからだ。
そのバイトの募集対象者は大学生に限られていた。森田の年齢は大学生と変わりなかったが、彼女は大学生ではなかった。そこで彼女は大学生だと偽って履歴書を書いたのだ。
ところが面接では好きな講義は何かと聞かれた。森田は戸惑った。まさかそこまで突っ込んだ質問をされるとは思っていなかったからだ。そこで思わずボードレールの講義が一番好きだと答えてしまった。
バイトが決まっても森田の不安はなくならなかった。それは同じ大学の子がそこにいたらどうしようと思ったからだ。しかし店長は従業員同士を敢えて紹介し合うことをしなかった。それは森田にとって好都合だった。それでも時々どこの大学の人ですかと他のバイトから聞かれることがあった。その時森田は相手から先に大学名を名乗らせた。そして自分が履歴書に書いた大学と同じ時はその質問を上手にはぐらかしていた。
そのようなことがあって森田は他のバイトと親しくなることはなかった。寧ろ避けていた。それは大きなストレスだった。それで先日店長にバイトを辞めたいと告げていた。
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