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第9章
その日工藤美紀は突然の携帯の音に起こされた。
(あれ、目覚ましをセットした時刻には早いんだけど)
それで枕元の携帯を持ち上げると、それは電話の着信音だった。しかし美紀はその時コンタクトレンズを外した状態だったので、誰からのコールかわからなかった。
(取り敢えず出てみるか)
美紀はそう思って携帯を耳に当てた。
「もしもし」
(え?)
すると、それは聞き覚えのない男の声だった。
(誰?)
しかし、その声の主はこちらが返事をためらっているにも関わらずしゃべり続けた。
「今日の3時限目、休講だよ」
「え?」
それには思わず声が出た。
「ゲーテの講義を履修してるでしょう?」
「あ、はい」
「それ、今日は休講だから」
そこでその電話は切れた。結局美紀はその声の主が最後まで誰だかわからなかった。しかし彼女は確かにゲーテの講義を履修していたので、きっと大学の友人だろうと思った。
(良かった。今日はゲーテ概論が休講なんだ)
それで美紀はそう思った。
(あ、でも2時限目の英語講読は出席しないとダメだ。ずっとさぼっちゃってたから)
それで美紀はベッドから体を起こすと身支度を整えて大学へ向かった。
(いったい誰が教えてくれたんだろう)
美紀は大学に着くとそのことを知りたくなった。それで何人かの男子に声を掛けてみたのだが、その中には美紀に電話をした者はいなかった。それでこのことは未解決のまま美紀の記憶から消えてしまった。
しかし、おかしなことは続いた。それはその翌日のことだった。大学からの帰り道、美紀はカメラマンだと名乗る男から突然呼び止められた。なんでも色々な大学を回って、可愛い女子学生を撮っているというのだ。
「その写真はどこに載るのですか?」
「キャンパスで見掛けた素適な女学生というタイトルで、インターネットに公開されます」
「ネットで?」
「はい。それでそれを見た人に投票してもらうんです。そこで最も多く票を集めた人にヨーロッパ旅行がプレゼントされます」
美紀は一瞬怪しい話かもしれないと思った。でもカメラマンが好みのタイプだったのと、その人がとてもほめ上手だったので、それにOKした。
しかし、それからいくら待っても彼から連絡が来なかった。そこでカメラマンが寄こした名刺にあった番号に電話を掛けてみたのだが、それは通じなかった。
おかしなことはまだ続いた。それはそれから更に数日後のことだった。美紀は静まり返った大学の講堂で定期的に襲って来る睡魔と必死になって戦っていた。ちょうど秋の日差しが西の窓から降り注ぎ、午後の最初の講義ということで他の学生たちも同じ誘惑に駆られていた。
その時突然美紀の後ろに座っていた学生が教授に指された。美紀は最初、指されたのは自分だと思ったので、心臓が口から飛び出しそうになった。しかしそれは自分ではないことがわかると、今度は後ろの学生の回答に神経が集中した。
「デカルトです」
するとその学生はそう答えた。
「うん。正解だ」
美紀は教授がどんな質問をしたのか聞いていなかった。それでそれが正解かどうかわからなかった。しかし教授が正解だと言った瞬間、隣の亜紀が凄いと驚いたので、難しい質問だったのだろうと思った。
ただ美紀もその学生の回答を聞いて驚いた。それは彼が発した「デカルト」という声が、数日前美紀に休講を知らせた電話のそれと酷似していたからだ。それでその声が美紀の頭の中を幾度も駆け巡った。
(間違いない!)
そして出て来た答えは、彼が美紀に電話を掛けた人物に違いないということだった。美紀はそう結論付けると、どうしても後ろを振り返えりたい衝動に襲われた。そして休講の電話をくれたのはあなたでしょうと言いたくなったのだ。しかし今は講義中である。それでその場はおとなしくすることにした。
(後ろの人の顔を見たい)
しかし美紀の欲求はなかなか治まらなかった。それでその時間中ずっとそのことだけを考えていた。携帯のアプリを使って画面を鏡にすると、後ろの人物の顔を見ようと何度も試みたが、それは上手く行かなかった。それで諦めた。
「今日はここまで」
そして遂にその時が来た。教授がテキストを閉じて、最後にそう言うと学生たちが一斉に席を立った。その瞬間美紀は急いで後ろの席を振り返った。しかしそこには誰もいなかった。そこは空席だった。どうやら講義の途中で美紀の気がつかない間に抜け出してしまったようだった。
第10章
森田は職場に行くため新宿に向かっているところだった。その時電車の揺れに合わせて背後から不自然な圧迫を感じた。最初それは偶然かと思った。しかし二度、三度同じことが続くとそれは故意としか思えなかった。
(痴漢だ)
しかし森田はいきなり大きな声を出すのはためらった。もしかしたら痴漢ではないかもしれない。ただ、このまま何もしないのは気持ちが悪かった。そこで先ずは相手の腕を捕まえて警告をすることにした。それでそれが止めば忘れようと思った。しかしそれでも治まらなければ仕方がない。もう一度腕を捕まえて、今度は痴漢だと声を出すしかないと思った。
するとその時電車のブレーキが掛かった。電車が新宿駅に近づいたのだ。途端、背後の男が森田の背中にぴったりと張り付いた。そこで森田は自分の腕を後ろに回して、その男の腕を掴もうとしたその時だった。その男の顔が森田の左耳にすっと近づいて来て低い声でこう言ったのだ。
「君を見つけた」
(え?)
それはあの手紙に書かれていた言葉と同じだった。すると森田はまるで暗示にかかったようにその場で動けなくなってしまった。やがて電車が駅に到着すると乗客が一斉にホームに流れ出た。しかし森田はそれに続くことが出来なかった。そして気がつくといつの間にか東京駅まで行ってしまっていた。
森田はどうにか東京駅で中央線に乗り換えたものの、頭の中は依然パニック状態だった。もしあの時鋭利な刃物で刺されていたらと思うと、震えが止まらなかった。
(どうしよう。どうしよう)
森田はその言葉をずっと頭の中でリピートしていた。それで警察に駆け込むことを考えた。しかし何も証拠がないのに警察が信じてくれるか不安だった。あの手紙は気味が悪くてすぐに処分してしまっていた。
(警察がダメならどうすればいいんだろう?)
そこで森田は誰かに相談することにした。いや、相談と言うよりも誰かにすがりたかった。しかしこの東京で友達と呼べる存在はいなかった。それでは福井の友達はどうだろうかと思った。森田は福井県の出身だった。しかし、彼らが今どこで何をしているのかわからなかった。
(じゃあ店長に)
すると勤務先の桑山店長のことが思い浮かんだ。店長とは仕事以外の話を一切しなかったが、自分より年長だったし、頼り甲斐があった。そこで藁にもすがる思いで彼に電話をした。
第11章
森田は国分寺にある24時間営業のネットカフェで働いていた。森田はどうにかそこに辿り着くと、そこで待っていた桑山にすみませんと前置きをして、事のいきさつを話し始めた。
「森田さんがストーカーに狙われてるって、どういうことなんですか?」
桑山は先ず森田の口からでたストーカーという言葉を聞いて、そう尋ねた。
「少し前の話なんですが、いつものように仕事を終えて帰宅すると、新宿駅で見知らぬ男から声を掛けられたんです。それが始まりでした」
「どんなふうに声を掛けられたのですか?」
森田は今まで桑山とこんな流暢に話をしたことがなかった。しかし今はこの人が一番頼れると思うと言葉が次々と湧いて出た。
「君を見つけた、と言われました」
「君を見つけた?」
「はい」
「君と言うのは森田さんのことですよね?」
「はい」
「それはおかしなことを言いますね」
「はい。意味がわかりませんでした」
「それからどうなったのですか?」
「お茶に誘われました。でも断りました」
「それはそうですね。そんな怪しい男とお茶になんか行けないですよね?」
「はい」
「それでどうなったんですか?」
「すると今度は電話が掛かって来たんです」
「電話が?」
「はい。それはその翌日なのですが、私のスマートフォンに電話が掛かって来たんです」
「その男から?」
「はっきりとはわからないのですが男の声でした。そしてまた同じことを言うんです」
「なんて?」
「君を見つけたと言ったんです」
「あ、そのことを言ったんですね?」
「はい。だから駅で声を掛けて来た男が電話をして来たのだと思ったんです」
「なるほど」
「それに電話の男は私の住所や私の名前まで知っていたんです」
「え!」
「そうなんです。それで驚きました」
「本当ですか?」
「はい。それから今日の話になります。ここに来る前に電車の中で後ろから耳打ちされました」
「まさかそれも同じことを言われたとか?」
「はい。そうなんです。君を見つけた、と言われました」
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