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十七時を回り、そろそろ夕飯の準備をしようと思っていると、電話が鳴った。探偵業のための携帯だ。僕が対応する。
「はい、宮代千鶴探偵事務所です」
『緩やかに落涙という者だ。依頼をしたい』
「すみません、もう一度お名前いいですか?」
『緩やかに落涙だ。小説家をしていてね。筆名でいいだろう?』
筆名にしても風変わりだ。若い男で、声を潜めているような感じがある。
『今から、すぐに来てもらいたい。遊栗山に〈くりえいてぃ部〉というコテージがある。ネットで検索すれば道は分かる』
「今からというのは、急ぐ事情があるんでしょうか」
『明日になって生きている保証がないのでね』
「と云いますと……?」
『昨日から此処に滞在しているが、客の中にスパイが混じっているらしい。オレのアイデアを盗もうとしている。そいつを暴いてもらいたい』
「スパイですか。どうしてそう思うんです?」
『おい、お前。あまり飲み込みの悪さを露呈するなよ。お前は宮代探偵でなく、スタッフだな? お前が顧客をイラつかせて仕事を逃したら損失じゃないのか?』
「え、すみません」
『当事者意識の欠如だ。日和見主義の若造が増えすぎた。分子から外れるのと、分母から外れるのと、お前はどちらを選ぶ?』
「どういう意味でしょう……?」
『期待が持てないな。どういう意味でしょうなんて問いが出るようでは』
「すみません……」
『いいか? 見くびるな。お前は絶対に、オレの実力を認めることになる』
「はい……」
『お前は、絶対に、オレの実力を、認めることになるんだ』
「分かりましたよ」
『宮代探偵に代われ。探偵もそんな調子なら他をあたる。無能に依頼してオレのアイデアが盗まれたら、取り返しがつかないんだ。おい、早くしろ。それとも分母から外れるか?』
「お待ちください。いま代わります」
偏屈な依頼人だが、まあ慣れている。保留を押し、「うりゃあ、リゼルグ酸ジエチルアミドも追加だあ!」と盛り上がっている千鶴にいまの内容を説明して携帯を渡した。
もっとも彼女は相手が厄介そうだからといって慎重な態度を取ることもないのだけれど、様子を見ている限りこじれる様子はなく、トントン拍子で話が進んでいるみたいだ。
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