記憶喪失

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「……記憶喪失?」 「簡単に言えばそういうことです。逆行性健忘、というのが正式名称らしいですが」 安達は苦い顔をして眼鏡のブリッジを押し上げた。 一眞が目覚めて最初に放った言葉により、祈織と倫太朗は一瞬思考も行動も停止した。 訝しげな眼差しがふたりを見つめ、ほんの少し怯えたような色を見せるのに先にパニックになったのは倫太朗だった。泡を吹くように大変だと看護師に縋り、看護師もただ事でないと感じたのかバタバタと病室を出ていく音を聞きながら祈織はただ茫然と一眞の綺麗な顔を眺めていた。 「稀なことではないんだ。事故に遭って一時的に記憶障害になる事はある。まして一眞の場合頭を打ったのだろう?」 安達の隣で腕を組んだまま、鷹司(たかつかさ)正則はそう言った。祈織たちの事務所の専務だ。 所属事務所はもともと小さな芸能事務所だったが、彼が専務になってからあっという間に中堅の芸能事務所になった。 社長のジュニアで、二世はボンクラが多いと言われるもそれには当てはまらずバリバリのやり手。 祈織もそうだが、今所属する若手は鷹司がスカウトしてきた者たちばかりだった。 まだ三十代半ばで安達とは同級生、旧知の仲らしいというのが祈織の知っている情報だ。顔は整っているしいつも笑顔なのに妙に隙がなく、そのスーツの好みからインテリヤクザのように見える。 安達が秘書のように見えるのもそれを助長していたが、話せば気さくな上、頼りになる人物なので祈織は慕っていた。 「そう聞いていますが……」 安達が鷹司にそう返しながらも思案げに一眞のいるICUを伺った。 今は取り急ぎ駆けつけてきた担当の医師が一眞を診察中だった。 「一時的っていうんなら戻るわけですよね?」 黙って聞いていた倫太朗が不安そうに鷹司に尋ねた。 「俺は医師ではないから確かな事は言えないけど、しばらくすると思い出す例が多いと聞くな」 鷹司の言葉にそれならまだ希望はあると祈織は息を吐く。 4月からはドラマも始まるし、業界では年末進行のため特番収録が続く。特番への出演もあっただろうが、それはどうとでもなるだろう。とりあえずレギュラー的なものがエアポケット的になかったことは不幸中の幸いだった。 何せ今の一眞は俳優になってから知り合った誰の事も覚えてはいない。 誰の事も、と言ったら少し語弊があるかもしれないが、一眞は家族以外の今かかわりのある人間の記憶をほぼ失くしているようだった。 幼いころの記憶もあるし、普段通りの生活にも支障がなさそうな点は医師の確認済みでそれだけは救いだ。
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