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「祈織さんといるとなんかすごく嬉しいんですよね」
一眞は記憶をなくす前よりも少し幼くなったと印象を受ける。まるで子供のようにストレートに嬉しいという感情を露わにするのだ。
祈織はなんて卑怯なのだろう。
先ほどのような質問をしてああいう答えを返されれば誰だって自分の恋人だったのだと取るに決まっている。
自分でそうだったと嘘をつく事も怖いくせに違うと言う事も出来ない。まるで誘導するように一眞に答えを委ねてその立場に立とうとしている。
「……一眞は男の恋人がいることに違和感を覚えないの?」
「……んー、なんていうか抵抗はない気がします。記憶がなくても心が覚えてるって言うか、祈織さんなら全然ありかなって」
一眞が記憶を探るように言う。目が合えばはにかむように一眞は微笑んだ。その美しい笑みが毒のように祈織を侵していく。
このままそうだと言ってしまえばいい。
瑞希が我儘を言う度少し困ったように笑って言うことを聞いてあげたり反対に怒ったり忙しいイメージだった。確かに表情豊かな一眞もいいが、ここ最近のふたりはどうにもぎくしゃくしているようでならなかった。
春に出演したドラマがヒットし、瑞希の生活が一変したこともあり、楽しい事ばかりではなく苛立ちを一眞に向けている気がしてならない。その愚痴をさりげなく祈織に話すこともあった。
祈織だったら一眞にそんなことをしない。いつだって穏やかで笑顔の一眞が好きだ。
「祈織さん?」
一眞の不安そうな声にハッとした。 その迷子のような表情に祈織は胸を突かれた。
「……違うんですか?」
いつも一眞の笑顔を見ていたい。この一眞の笑顔を曇らせたくない。
「……ううん、違わない」
祈織は覚悟を決めてはっきりとそう言った。
とたんに一眞の顔がぱっと明るくなる。まるで迷子の子供が親を見つけ出した時のような安心した顔。
「……俺は一眞が好きだよ」
ずっとずっと心の奥、決して伝えることはないと思っていた気持ちを伝えた。
言葉とは本当に不思議なもので、ただ伝えたことで心の奥の重いものがとれたような気がする。
ああ、自分はずっとこの言葉が伝えたかったのだとようやく気付いた。
「うん、俺も祈織さんが好き」
毒のようなその甘い言葉は塗りかえられた記憶の上のまやかしでしかないのに、ひどく嬉しかった。
一眞が祈織の掌に手を重ねる。それを握り返せば一眞がふわりと嬉しそうな笑みを浮かべた。 それに何もかも、罪悪感も後ろめたさもすべて消されていく。
「……一眞が何よりも大事だよ」
何度も何度も夢の中、そして心の中で呟いた言葉を惜しげもなく伝えて祈織はその掌を握りしめた。
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