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「一眞、俺と少し遠くに療養しに行ってみない?」
「え?」
退院の準備を終えて、会計の為に入退院専用窓口のソファに座っている時だった。 祈織はおもむろに横に座る一眞にそう問いかけた。
「結局記憶も戻らないままだったし。少し空気のいいところに行ってゆっくりしない?」
「……でも仕事は? 俺はしばらく休業だけど、祈織さんはそうはいかないでしょう?」
一眞は思案気にそう言う。
ざわめく院内の待合室でも一眞は目立つ。その証拠に傍にいる子連れの若い主婦がちらちらとこちらを見ている。小山内一眞だと気付いたのかもしれない。主役ではないが日曜朝のヒーローものに出ていた一眞はその層に認知されている。
スタッフが持ってきたその番組のDVDをまるで自分じゃないもののように見て恥ずかしいと赤くなったその姿を思い出して祈織は小さく笑う。
「大丈夫。療養先は東京から2、3時間のところの予定だし、仕事の方はどうとでもなるよ。ご両親にも俺の方から話すし」
大した仕事もないし、という言葉はぐっと飲みこんだ。
今回の入院生活で毎日一眞の元へと訪れていた祈織は、一眞の両親からも絶大な信頼を得ている。自営業の仕事の関係で既に広島に帰った一眞の両親に変わり退院の手続きを任されていた。祈織から療養のために少し東京を離れると伝えても問題はないだろう。
「祈織さん、」
「小山内一眞さん、お待たせいたしました」
「あ……」
一眞が何かを言おうと口を開きかけた時、一眞の名が会計から呼ばれ祈織は立ち上がる。立とうとする一眞を押し止めて祈織は笑みを浮かべた。
「支払ってくるからちょっと考えていて」
「あ、あのっ……日曜の特撮に出ていた小山内一眞さんですよね! うちの子、ファンなんです!」
近くにいた子連れの主婦が一眞に話しかけて一眞の意識が逸らされる。
そのすきに祈織は一眞のそばを離れ、会計へと向かう。
一眞の両親から預かった金を払い、事務手続きに向かう事務員の背を眺めながら祈織は密に自分の突然の思いつきに震えた。
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