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恋人だと嘘をつくのは一眞が退院するまでと思っていた。退院する時にちゃんと謝って一眞の恋人は瑞希だと伝えるはずだった。
それまでの期間限定の恋人ごっこ。 そのつもりだった。
ただ、精神的な幼い恋愛ごっこでよかったのだ。一眞の手に触れたり、見たこともない恋人への甘えるような視線や笑顔を見ているだけで。
欲が出た、ただただその一言に尽きる。
どうしても瑞希に返したくないと思ってしまった。
どうして一番大事な人が大変な時に一目でも会いに来ない。一番大変な時に何をおいても会いに来ない恋人など、ましてや覚えてもいない恋人などなかった事にしてしまえばいい。
それよりも自分が何度も好きだと告げて一眞を安心させ穏やかに毎日を送らせてやった方がよっぽど幸せなのではないか。
少し前の冷静な自分が見れば、何かに憑りつかれていたとしか思えないような事を考え祈織はぎゅっと車のキーを握りしめた。
事務員が保険手続きに必要な書類を祈織へと渡してくれる。祈織はそれを受け取って礼を言うと一眞の元へと戻った。
ファンだという子供と握手を終えて手を振っている一眞の傍に置いてあった荷物を肩にかけると、松葉杖を一眞へと渡した。
一眞が祈織を見つめている。祈織が一眞と瞳を合わせるのを待っているかのように。
「祈織さん、俺、」
「……さっきの返事はいらない」
祈織は視線を反らしたままそう言った。
一眞の切れ長の瞳がまん丸に見開かれたのが分かった。
「え?」
そう、もういらないのだ。
一眞の答えがイエスでもノーでも、祈織は決めたのだから。
ぽかんとしたその少し幼い表情の一眞の顔を真っ正面から見つめて祈織は口を開いた。
「これから俺は君を攫うよ」
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