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祈織が庭に面した縁側に立てば一眞は足を庇うようにその隣に座った。ぶらぶらと縁側から脚を投げだして気持ちよさそうになびく髪をかき上げる。
「すげーいいとこですね……海の匂いがする」
ふたりの髪を緩やかに夕方の少し冷たい風が撫でる。 海はずっと先なのに潮の匂いが届く気がするのは気のせいじゃないらしい。祈織は一眞が先程呟いたことと同じことを考えて煌めく海を眺めた。
「ねぇ、祈織さん」
「うん?」
一眞が夕日に染まる海を眺めながら静かに祈織の名を呼んで見上げた。
「病院で祈織さんが言ったことの俺の答え、どうして聞かなかったんですか?」
「……それは、」
ここに一緒に来ないかという問いの一眞の答えが怖かった、などと一眞には想像もつかないのだろう。
ずっと片恋をしてきた。 一眞の心は祈織ではなく瑞希に向いていたから。
「馬鹿だなぁ……祈織さんは」
呟かれた一眞の一言に心が抉られる。
だが、一眞は夕日に照らされながら明るい笑顔で祈織を見上げた。
「祈織さんが一緒ならどこに行ってもいいに決まってます」
断られるとか、なんで考えるんですか? そう囁くように言って一眞は拗ねたように唇を尖らせる。
あまりにも幼いその仕草が眩しくて祈織はきゅっと唇を引き結ぶ。
衝動的に連れてきてしまったが、嫌われたり軽蔑されなくて良かったと心底思いながら一眞の隣に膝をつくと微笑む。
「ありがとう」
そう呟くように礼を言えば一眞はまた笑って、祈織の手を取る。
「お礼言うのはこっちです。どうせ俺も記憶が戻るまで大人しくしてろって言われてるし、しばらくふたりでゆっくりしましょうよ。……それにしても何で祈織さんの手こんなに冷たいんですか」
「冷え性なんだよ」
重ねられた手を取って冷たくなったそれを温めるように包み込まれ、祈織はその優しさに胸を昂らせる。触れたそこから鼓動が伝わってしまうのではないかと戸惑いながら整った男らしく優しいその顔を伺えば、一眞はふと目を細めた。
そうして膝立ちした祈織のうなじにするりと手を巡らせる。そっと引き寄せられ、緩く首を傾げてその顔を近づける。
その仕草に何をねだられているかが分かり、祈織は小さく喉を鳴らした。
「……覚えておいて。祈織さんにならどこに攫われてもいいよ」
近づく唇が触れる瞬間の言葉。
ドキドキとうるさい心臓。
初めて触れてきた愛しい人の唇は少し冷たく、そしてとても柔らかかった。
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