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可愛い後輩
「祈織さん、おはようございます」
「一眞、お疲れ様。さっきのシーン、すごくよかったよ」
長身の一眞が祈織にぺこりと深く挨拶するのに祈織は相好を崩した。祈織も平均よりは高い身長だが、サッカーをやっていたという一眞は祈織よりも更に大きい。それこそ野外での撮影を終えてベンチコートを羽織っている姿はプロのサッカー選手のようにも見える。
「本当ですか? 祈織さんにそう言われると自信がつきます」
一眞はにこにこと祈織を見つめてそう言った。
流行の髪型に小さい顔、すらりとした小山内一眞は爽やかな好青年という印象とともに少年めいたところもあり20代以上の女性にとても人気があるという。
いわゆるネクストブレイク俳優と呼ばれている一眞は祈織と同じ事務所のふたつ後輩だ。高校2年生の時にデビューしたからまだ2年と少しであるが事務所の中で瑞希と並んで出世頭でもある。
それなのに奢ることもせず、ぱっとしない祈織に懐いてくれているのだから本当にありがたい。
初めて会った時、緊張した面持ちで『ずっとファンでした! 握手してください!』と言われたことは今でもいい思い出である。
どことなくゴールデンレトリーバーを彷彿とさせるように人懐こく祈織を慕ってくれている可愛い後輩だ。
まじめで誰にでも分け隔てなく裏表のない性格は愛されるらしく、芸能界でもあっという間にその居場所を作った。
「あれ、一眞くん、後輩?」
「え、あ、いや」
後ろを通った若いアシスタントディレクターがそう言うのに一眞が違うと首を振るのを押しとどめる。
「一眞くんと同じ事務所の宮と言います。今日はどうぞよろしくお願いします」
次のシーンで主役と一眞がカフェで話をするシーンの店員役の祈織は笑顔を浮かべて頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします!」
業界に入って浅いのだろう。何の疑問も持たずにそう挨拶をして通り過ぎていく。
「……祈織さん」
「いいんだよ。別に先輩だろうが後輩だろうが、今日のこの現場では俺の方が下なんだから」
カフェ店員の衣装を着ているのだから一眞の先輩だなどと思うわけもない。
「そんなことありません。祈織さんほどの実力ならチャンスさえあれば俺なんかよりずっとすごいんですから」
「はは、ありがとう。そう言ってくれるのは一眞くらいだよ」
「そんなことないです、倫太朗や安達さんだってそう思ってますよ」
倫太朗とは一眞と同じく祈織より二つ下の後輩の名前だった。
一眞の言葉はいつも祈織に勇気をくれる。ほわりと温かくなる胸の内に祈織は小さく微笑んだ。
「……ありがとう。……それより、そろそろ着替えに行った方がいいんじゃない?」
「一眞くーん」
祈織がそう言ったのとほぼ同時、メイク担当が一眞を呼んだ。
「あ、はい! じゃあ祈織さん、後で一緒のシーン撮れるの楽しみにしています」
またぺこりと頭を下げて一眞はメイク担当の元へと走っていった。
「一緒のシーンって言ってもね……」
笑顔で一眞を見送った祈織はその表情を苦笑いへと変える。
祈織が出演するシーンは一眞と甘党の主人公がカフェに入ってきて長ったらしい呪文のような甘い飲み物を頼むシーンで「いつものですね、少々お待ちください」と言うだけのチョイ役だ。このカフェでいつも話をすることから祈織もちょいちょい出演する機会はあるが、セリフがない時だってある。
へこみそうになるも一眞に悪気はない。本当に祈織と一緒に出演することを楽しみにしていてくれる。
ちくんと突き刺す胸の痛みに気づかないふりをして、祈織はスタンバイの声に顔を上げた。
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