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「はー…おいしかった! ごちそうさまです、祈織さん」
「いや、こっちこそごちそうさま。今まで食べたデザートの中で一番おいしかった」
「大袈裟ですって」
嬉しそうに笑う一眞に微笑みを返す。
本当においしかったのだ。一眞が祈織のために用意してくれたものだから。
店を出てふたり駅への道を歩く。冷たい冬の空気に吐息が溶けて消えていくのを見つめればその向こうに温かみのある真ん丸の月を見つけた。
「祈織さん、明日は?」
「明日は安達さんに頼まれて瑞希の現場」
「なんで祈織さんがそんなこと……」
眉を顰める一眞に祈織は笑う。
「なんか瑞希のマネージャーさん、急遽休みな上安達さんも別件で熊本だって言うから頼まれたんだよ」
「それにしたって、ほかのスタッフがいるじゃないですか」
「うーん、瑞希につくとなるとなかなかね……」
我儘放題の瑞希のお眼鏡にかなうスタッフは少ない。バイトとして少しは色を付けてくれるようだし、瑞希が祈織ならOKと思ってくれることは単純に嬉しい。
そんな話をしていれば一眞の持っていたスマートフォンが震えた。
ちらりと見えてしまった画面にはちょうど瑞希の名前が表示されていた。
「瑞希?」
「いや…うん、はい、でも大丈夫です」
メッセージアプリを開いて画面を見つめたまま少し躊躇ったように、だが、困ったように一眞は笑った。一眞は昼夜問わず瑞希からこうやって呼び出されることが多い。
「行かなくていいの?」
「うん。大丈夫です」
一眞はそう言うとスマートフォンをコートのポケットへと投げ入れた。
喧嘩でもしたのだろうかとちらりと頭をよぎる。いや、一眞が寛容で喧嘩にすらならないかもしれない。
一眞と瑞希は付き合っている。それは事務所の限られた人の間では公認で、その付き合いは既に2年以上だろうか。
瑞希は少しばかり複雑な家庭環境で荒れていた時に事務所の専務にスカウトされたらしい。
地元の不良仲間とつるんでいた時に『そんなにエネルギーが余っているなら別の場所で放出しない?』と口説かれたというのは高校時代によく瑞希から聞いていた。
あのまま成長していたらどうしようもない奴になってたね、と笑う瑞希は専務の鷹司のことを本当に慕っていた。
もともと正義感は強いし、頭がいいのか手を染めてはいけない一線というのもわかっている。口は悪いし悪いこともやっていたようだが、心持は正義感の強いヤンキーといったところ。
今はその面影も鳴りを潜めてはいるが、タレントとしての瑞希の明るく元気な弟キャラというイメージは作られたものだ。
そのイメージを崩さないよう過去のことはできるだけ出さないよう統制されてはいるが他人にはわからない色々があるのだろう。性別関係なく、一緒に出演した女優やスタッフ、それこそ見境なく手を出す悪い癖があった。
だからこそ一眞と付き合い始めた当初は瑞希も落ち着いていて、事務所のスタッフも大人しくしていてくれるならと胸を撫でおろしていたのに、徐々に我儘放題の瑞希は一眞を振り回し始めた。
それでも一眞が瑞希のストッパーになっていることは二人の関係を知っている人間の間では共通認識だったのだが。
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