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第18章
店長と久しぶりに再会した日、私はすっかり忘れていた那美のことを思い出した。そういえば彼女は今、何をしているのだろう。あの事件以後大学では一切見掛けなくなったけど、まさかいなくなるということはありえないし、卒業はしたのだろうと思った。
那美との思い出は勿論ゴッホでのアルバイト、そしてよく2人で遊びに行ったことだった。
でもその中で特に思い出に残ることは、やっぱりあのレジの事件のことだった。
店長は真実を知って、申し訳ないことをしたと言っていた。でも私は特にそういう気持ちを抱いたことはなかった。店長は勝手に勘違いをして、そしてきっと那美にキツい言葉を浴びせたのだろう。だからそれは店長の責任であって、私には関係のないことだ。私はレジのお金を店長のかばんに移しただけ。那美がやったとか、那美がやったように見せかけたとかしたこともない。だから私は何も悪くない。
店長の話だと事件後、那美には電話が通じなくなったと言っていた。それで店長は直接会いに行くか手紙でも書いてお詫びをすると言っていたけど、だからって私は何かをしようとは思わなかった。今更そんなことで責められるのも嫌だったし、営業で毎日疲れて、家に帰ればすぐに寝てしまうような生活の中で、そんなことをしている暇などなかった。
第19章
「3つ目の願いをいいですか?」
僕は再び彼と並んでいつもの彼女を見降ろしていた。僕は彼を見ることなく、視線はベッドに寝たきりの彼女に向けたまま、そう尋ねた。
「思いついたかな?」
「はい」
「どうぞ」
「彼女を元気にしてあげて欲しい。自由にベッドから起きれて、学校なり、仕事なりに、普通に行けるようにして欲しい」
「さて、困った」
「困った?」
「生憎それは出来ない願いだから」
「どうして?」
「ものには順序があるから」
「順序?」
「彼女をあのようにさせているきっかけを排除することが先決だからだよ」
「と言うと?」
「それは言わなくてもわかっているのでは?」
「では、あの由美子とかいう女ですか?」
「どうだろう」
「僕が思い当たるとすればそれしかありません」
「では願ってみるかな?」
「でも、由美子がどうすればいいのだろう」
「どうしたらいいのかな?」
「うーん……」
第20章
その日小川さんは、先日彼の紹介で会社に営業に来た小高さんを連れて来社した。きっと小高さんが小川さんに僕への口添えをお願いしての今日の来社になったのだろうと直感した。そして、その直感は当たった。
「社長、こちら先日お会いした小高さんです」
小川さんはそう言ってその話を始めた。
「先日お話したように、秘書を社長にどうかと思いましてね」
僕の今の仕事は特に秘書を必要とするものではなかった。先日、柔らかくではあったが、お断りをしたつもりでいた。それが伝わらなかったのか、或いは伝わってはいたのだが、そこをなんとか小川さんに頼って、僕にうんと言わせようという魂胆なのかと思った。
「私達と月に1回開催しているゴルフコンペにも、皆さん秘書の方をお連れしてることは、社長も御存じだと思います」
「はあ」
「社長ほどの人物が秘書の1人や2人を連れてないとやはりこう何と言いますか、バランスが悪いというか……」
この後話を詳しく聞くと、どうやらこの小高という子は、小川さんの妹の娘だということらしかった。最近、秘書をレンタルするという企業に就職したということで、その営業をしているとのことだった。この前営業をしていた会社は辞めてしまったのだろう。新しい会社に変わって、そこでおめでたい成約第1号を僕にという話だった。要は今まで1件も成約に漕ぎつけず、そのお鉢が僕のところに回って来たということだった。正直そんな余裕もないし、是非断りたかったのだが、日頃色々と仕事のことでお世話になっている小川さんの頼みを断ることは出来なかった。
「さすが社長!太っ腹!」
しかし、僕は秘書サービスを受ける条件を出した。
「小高さんに1つ条件を出したいのですが、宜しいですか?」
「それは勿論ですよ。なあ」
小川さんはもう成約気分で小高さんの肩を叩きながら上機嫌だった。
「秘書と言えば、言葉遣いに始まる礼儀作法が大切です」
「はい。私は秘書検定2級を持っています」
「それは素晴らしいですね。それも勿論大事なことです。しかし僕はそれにも増して、心、それが1番大事だと思っています」
小高さんは黙って頷きながら、僕の話を聞いていた。
「それでですが、小高さんも若い頃、勿論今でも若いですが、今よりももっと若かった頃、1度や2度は人間関係で失敗したことがあると思います」
彼女は始終頷いている。
「そこで、小高さんが心に思う、人間関係でつまずいたことを、これを機会に修復して欲しいのです」
小高さんは、え? という顔をした。
「友だちとかで、些細なことで不和になってしまった人とかいると思うんです。その方と仲直りをしてもらいたいんです。仲直りが出来なくても、手紙を書くとか、電話をするとか、そういうことで過去の傷を治癒して欲しいんです」
小高さんが困ったという顔になった。
「いらっしゃいませんか? そういうお友達」
「いると言えばいますが……」
「何故? というお顔をしてらっしゃいますが、先ほど申し上げたように、小高さんの今やられているのは、心を大切にする秘書をお貸しします、という営業のお仕事です」
「はい」
「ですから、ご自分の実体験を元に心とは何か、みたいな営業の際のエピソードをどうかひとつ作って欲しいのです」
「はあ」
「既に営業トークもいくつかお持ちになられているとは思います。ですが、そこにもう1つ、最近の小高さんの心が洗われるような実体験をそれに是非、加えていただけたらいいなと思うのです。僕も今、小高さんを応援する意味で、この秘書のサービスを受ける気になりました。そこでもう1つ、是非これも小高さんを応援するものとしてこの提案をしたのです」
「なあ、社長も応援してくれると言ってくれてるんだから、何か1つやってみたらどうかな」
そこで小川さんが口を挟んだ。
「はい」
彼女は不満そうだったが、それでも契約が1つ取れるということで、私の願いを聞かないわけにはいかなかったのだろう。
「わかりました」
「手紙を書くにしても、電話をするにしても、あまり昔のことだと相手方にしても、覚えていないということがあるかもしれません。そこで大学生の時で、例えばバイト先で仲の良かった人と今は疎遠になっているというようなことがあったら1番いいように思います」
僕がそう言った後、彼女は少し驚いたような顔になった。そして少し僕の顔を見ていたが、僕がそれを無視すると1度だけ頷いて、はいと言った。
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