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第8章
うちがこのように経済的に苦しくなったのは、私のこの病気がきっかけではありませんでした。勿論今の私のこの状況はそれに拍車をかけていることは確かです。でも違うんです。それは父の交通事故がきっかけなのです。
私がまだ幼かった頃、うちはどちらかというと裕福な家庭だったそうです。今も家にある五月人形やひな人形は見るからに高そうな逸品です。かつての写真を見ると来ている洋服も、家の中の調度品も、そして家族の表情にまで満ち足りた幸福感が漂っていました。
それが、ある日、父がお酒を飲んで中学生を車ではねてしまったことで、いっぺんに事態が変わってしまいました。
幸いにも父は実刑にはならず執行猶予がついたのですが、勤めていた会社をクビになり、次の就職先もなかなか決まらず、そのため再びお酒に走り一気に家庭が崩壊しました。
それからは母が女手一つで兄と私を育ててくれました。兄は私とは一回りも離れていて、既に進学する高校も決まっていたらしいのですが、それを諦めて仕事に就くことになりました。
一方私は母と兄の援助を受けながら、勿論奨学金のお世話にもなって高校、そして大学と進むことが出来ました。そのことでは大変二人に感謝をしています。
私は大学に入ると学校から近いカフェでアルバイトを始めました。少しでも家計の足しになればと思ったからです。私とそのアルバイト先はとっても相性が良く、私は週5日をそこで勤務することになりました。
特に店長さんが良かったです。私達大学生のアルバイトとそんなには歳の差がなく、プライベートな相談にも乗ってくれることもありました。私も本当の兄よりもずっと年齢の近い兄のような感じで店長と接していました。
ところが事件が起きました。
私がいつものように大学の帰りにそこに寄ると、従業員控室から由美子が駆け足で出て来たのです。何が由美子を急がせているのかと思うと、彼女に続いて店長もそこから飛び出して来ました。由美子は泣いているように見えました。それで私は一瞬パニックに陥りました。それは先月のバイト仲間での打ち上げの時に、由美子と店長が並んで座って、とても仲良くしていたからでした。
(もしかしたら、付き合ってる?)
私はその時そんなことを思ってしまいました。ですから、由美子と店長が喧嘩でもして、それで由美子は泣きながら走って出て来て、それを店長が追い掛けて来たのだと思ったのです。だから由美子のことが心配でしたが、その場では由美子を引き留めて事情を聴くこともせず、店長が由美子を追い掛ける姿を横目で見ながらも平静を装っていたのでした。
そしてその翌日、午前中の講義に家を出ようとした時でした。突然私の携帯が鳴ったので、誰からかしらと画面を見ると、それは店長からだったのです。
私はなんだろうと思って、電話に出てみると、店長の声はいつになく冷めた感じで、これからすぐお店に来て欲しいと言うのです。
私は少し緊張して、今から伺いますとだけ言って、その電話を切りました。そして自宅からお店に向かう間、いったいどんな用件だろうと実はかなりドキドキしていたのです。
私は由美子のこと? とそう思いました。夕べのあの一件がまだ解決してなくて、たまたまその場に出くわせた私に何か頼みごとをするのかもしれないと思ったのです。
お店に着くと私は早速従業員控室に通されて、そして店長と二人きりになりました。
いつもは冗談を言い合うような関係だったのですが、こうやって真面目な雰囲気でしかも密閉された空間に二人だけになると突然心が重苦しくなりました。
「津山さん、昨日お店に来た時」
店長の開口一番のセリフで、私が呼ばれたのはやっぱり由美子のことなんだと思いました。
「ここには君しかいなかったよね?」
(え?)
「君が来る少し前、お客さんがちょうど途切れたので、一瞬お店を開けたんだよ」
「え?」
「たぶん3分くらいだったかな。下のごみ置き場に行ってたんだよ。大家さんから文句を言われたんでね」
(え?)
私は店長が何の話をしているのかまるでわかりませんでした。
「その間に君が出勤して来て、それで少し経って僕が戻って来たら、君がスタンバイしてたってことだったと思うけど」
「由美子は?」
「え?」
「小高さんは?」
「小高さん? 昨日は非番でしょ?」
「え?」
「昨日の夜間は僕と津山さんの二人だよ。シフト表もそうなってるでしょ?」
私は由美子の話でなかったことに面を食らった。ではいったい何の用があって私を呼びだしたのだろうかと思った。
「昨日お店を閉めた後、それは津山さんが帰った後だけど、レジを合わせたんだよ。そうしたら5万円がどうしても合わないんだ」
「え?」
「君が来る前まではちゃんとレジは合ってたんだけどね」
(それって……)
「君のご家庭が経済的に苦しいという話は君からも聞いていた。だからバイトに入る日数も特別に優遇したつもりだ」
(え……)
「だから、もし困ったことがあったら何でも相談していいんだよ。お金に困ったのなら、そう言ってくれていいんだよ。僕は出来る限りのことはしたいと思ってる」
(それって私が盗んだと言いたいのですか?)
「5万円。そんなにたいした金額ではない。だからおおごとにするつもりはない。僕が補てんしてもいいんだ。でも事実ははっきりさせておきたい」
「どういうことですか?」
私はわかってることをおそるおそる店長に聞いてみた。
「君だろ? 津山さん、君が5万円をレジから抜いたんだろう?」
「違います!」
私は大きな声で即座に否定した。しかし、その時の店長の目を私は今でも忘れることが出来なかった。それは私を憐れんでる目だった。私がお金に困り、そしてレジからお金を盗んだことを悪いことだと責めているのではなく、可哀そうだと憐れんでいる目だった。
それから店長は静かに席を立つと私の肩に手をやり、後は心配しなくていいからと言ってその部屋を出て行った。
私はとても惨めな思いをした。それはお金を盗んだ疑いをかけられたからではなかった。あの店長に憐れみの目を向けられたからだった。
私はこのお店でバイトを始める時に、店長に家計を助けたいからと言って、普通は週に3回までしか働けないところを週に5回も働けるようにしてもらった。
私がそのことで感謝の言葉を口にすると、私の働く動機に心を打たれたからだと店長は言った。経済的に苦しい現実を直視して、それにへこたれず、寧ろ果敢にそれを乗り越えて行こうとする君の心に打たれたからだと言ってくれた。
私はその時の店長の言葉がとても嬉しかった。私は私の家庭の事情で働くのはそれは私の勝手だと思っていた。だから家族からも特に感謝などされないし、勿論友だちに自慢することでもないし、誰からも評価などされるはずがないと思っていた。
しかし、店長は違った。店長は本当に私のことを分かってくれる人だと思った。だからそのお店での勤務は本当に楽しかった。絶対に頑張るんだと思った。
それが、一気に挫けそうになった。
もう辞めたいと思った。
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