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第14章
その日、渋谷で行われた店長会議が意外に早く終わった。会議のあった建物から出ると天気も良かった。それで少し渋谷の街をぶらついてみようと思った。
「由美子?」
スクランブル交差点のちょうど中間地点だった。前からこちらに歩いて来るスーツ姿の女性に僕はそう声を掛けていた。
「店長?」
途端にその女性は笑顔で僕を見た。
「どれくらいぶり?」
僕は近くのカフェに彼女を誘うと開口一番そう尋ねていた。
「何年ぶりかなあ」
「スーツ姿、見違えるね」
「ありがとうございます。でも店長、よく私がわかりましたね」
彼女は空気清浄機の営業をしているとのことだった。知り合い関係で色々な企業に行って、そこにその機械をレンタルするという会社に勤めているという話だった。
「でも営業ってたいへんじゃないかい?」
「そうですね。最初は知らない会社に上がり込んで、初めて会う人にうまく説明することがなかなか出来なくって」
「うちのアルバイトとはまるで勝手が違うよね」
「ええ」
「僕も由美子が辞めた後、すぐに違うお店に異動になってね」
「そうだったんですか?」
「うん」
「私もあれから全然お店には顔を出さなかったから」
「そうなんだ」
「なんか、顔を出し辛くなっちゃって」
「え? どうして?」
「うん」
そこで会話が止まった。それで僕はどんな経緯があったのか気になった。
「そう言えば津山さんもあれっきりだったなあ」
「那美ですか?」
「うん」
「そうだったんだ」
「あれ? 知らなかった?」
僕は仲の良かった彼女がそのことを知らないことが不思議だった。
「私もあれから那美には会ってないから」
「え?」
僕は由美子のその言葉に言葉がつまった。
(どうして?)
「え? って?」
しかし、由美子の反応はさらに不可解なものだった。
「いや、だって、由美子がどうして津山さんと疎遠になったのかなって」
「だって、あの事件があったでしょ?」
「あの事件て?」
「レジの事件。だから私、罰が悪くなっちゃって」
「どうして?」
「どうしてって、だって……」
「え?」
僕がその理由がわからないという顔をすると、彼女がどうして、という顔で覗きこんで来た。
「やだ、店長」
「やだって……」
するとどうやら本当に僕がとぼけてるんじゃないということが、ようやく由美子にも伝わったようだった。
「店長、あの5万円、出て来ましたか?」
「ううん」
そこで彼女は、やっぱりという顔になった。
「店長、5万円は店長のかばんに、私が隠したんですよ」
「え!」
僕は次の瞬間、何故? と思った。
「あの日、スペアの鍵で店長がお店が来る前に出勤していたんです」
「え?」
「だって、あの日って店長と那美だけのシフトだったでしょ?」
「うん」
「私ね。あの頃、店長が好きだったんですよ」
「うん」
僕は由美子の気持ちには何となく気が付いていた。
「でも店長誰にでも優しかったから。特に那美には親切にしてたように思えたなあ」
「そんなことはないさ」
「当時の私にはそう思えてて、それで2人の関係を疑ってました」
「そうなんだ。でもあれは彼女の家の事情があったからね」
「それで店長が来る前に女子更衣室に隠れてたんです。お店が始まる前に、2人が従業員控室でラブラブなことをするんじゃないかって思って」
「それはないよ」
「少ししたら店長がお店に出勤して来ました。那美がいつ来るのだろうと思って、こっそりドアを開けて控室を覗いていたんです」
「津山さんは開店10分前、店長は開店30分前が基本だったね」
「ええ。バイトの子は開店10分前くらいに来てましたね。それまでに店長がみんな準備を終えてくれてたので安心してぎりぎりに来てました」
「でもその時は君はただ隠れていただけなんだろう?」
「はい。でも、見てしまったんです」
「何を?」
僕はいったい何を見られてしまったのかと、心臓がドキドキし始めた。
「バイトの子がつけるエプロンが控室の椅子に無造作に脱ぎ捨ててあったんです。それを店長が片付けていました。そして、その中の1つを丁寧に折りたたんで、それをテーブルの端に優しく置いたんです」
「そんなことしたかなあ?」
「あのエプロン、あれは那美のでした」
「津山さんは自前のエプロンを持って来てたね」
「それです。私がよく使っていたエプロンはくしゃくしゃのまま、椅子の上にどけられただけでした」
「だって、津山さんのは自前だし、値も張ったんじゃないかな。それに引き換え、君が使ってたのはお店の安物だよ」
「でも、私が使っていたものにはYUMIっていう名札を付けていたんですよ。だから私のだってすぐわかったのに」
「え? そうだったの?」
僕はそんな事情など、全く知らなかった。
「だから私、店長を困らせようと思って」
「そんなことで?」
「そんなことだからですよ」
「店長がトイレ掃除に行った時に、レジからお金を抜いたんです。そしてそれを店長のかばんの中に隠したんです。でもそれに気が付かなかったなんて」
「本当にかばんに隠したの?」
「はい」
「間違いない?」
「はい」
あの時のかばんはお気に入りで今も使ってるものだった。そしてそれは今も持ち歩いている。僕は横に置いてあったそのかばんの中を覗きこんだ。
「そのかばんじゃありません」
「だってこのかばんをずっと使ってるんだよ」
「いいえ。私はよく憶えていますが、取っ手のところに二重にミシン目が入っていたやつです」
僕はそう言われてそのかばんのことを思い出した。
「たぶん前に使ってたかばんだよね?」
「中に二重のファスナーがあって、その内側のポケットの中にお札を裸で入れました」
「そっか。あのかばんは押し入れの奥にほおりこんであるよ。でも捨てなくて良かった」
「ちょうどかばんに隠し終わった時、店長がトイレ掃除から戻って来たんです。私びっくりして、それであわてて更衣室に潜り込もうと思ったら……」
「思ったら?」
「那美が階段を上がって来る音が聞こえたんです」
「うん」
「そうしたら、店長があわててネクタイを締め直したんです」
「それは、いつもしてたと思うよ」
「いいえ、見たことはありませんよ。私の時もそんなことしなかったし」
「だって、みんなが来る前にしてたことだから」
「私、若かったですね」
そういって彼女は笑った。
「君がいきなり控室から外に出て行くのが見えたから、シフトを間違えて出勤したのかと思って」
「階段の下まで追い掛けてくれましたね。私、それを振り切って行ってしまいました」
「そうしたら津山さんが現れたから、やっぱり君がシフトを間違えてあわてて帰ったと思ったんだよ。そのことは津山さんには話さなかったけどね」
「そうだったんですね」
「でも、それじゃあ僕は津山さんにたいへんなことをした」
僕はどうしようとその時に思った。
第15章
妻が何故不貞を働いたのか。それはわかっていた。妻が何も、あいつのことを好いていたとか、私への当て付けだったとか、そういうことでは一切なかった。
それは私が仕官するきんすを工面するためだった。妻が嫁いで来た時に持参した着物も全て質に入っていた。私は傘貼りの内職をして細々と生計を立てていた。
ある時、その出来上がった傘を納品する時に、暴走した荷車から武家の奥方を助けたことがあった。その方は藩の重臣の奥方だった。私はその方のお屋敷に招かれ、今の身の上をお話しすると、そのようなことなら是非仕官の口利きをさせて欲しいと言われた。
しかし、この世は何事も金である。それは私にはとうてい手に入れることが出来ない金額であった。
私はそのお屋敷に招かれた時は気持ちがとても高揚していた。しかし、家に戻るとすっかり気持ちは萎えていたのだった。
私はその無念を妻に語った。それは未練ではなかった。それはいくら手を伸ばしても決して届かない夢の中の出来ごとのようなものとして妻に語ったつもりでいた。
それから妻がそのことをどう考え、そしてどのようにして事に及んだかは知る由もなかった。しかし、あいつからあのきんすを直接手渡されたことで、私は妻の所業を知ることになったのだった。
その日、吉野の桜は満開になった。妻はその桜の枝を数本折って自宅に持ち帰った。私が帰宅すると居間の隅にそれが晴れやかに飾られていた。
私が振り切った刀は、その枝を宙に飛ばした。その枝からは、桜の花びらがらせん状に舞い上がった。それは昨年、妻と並んで歩いた吉野の桜の景色を蘇らせた。
妻はその桜色に包まれて倒れた。
私は、妻の不貞に怒りを覚えたのではなかった。自分の無力さに腹を立てたのだ。しかし、行き場のない感情を、全てを受け入れてくれた妻に向けてしまったのだった。
第16章
「あれ」
その乗客はいざバスを降りるという段になって急にあわてはじめた。
「おかしいなあ」
それは明らかに財布がどこかへ行ってしまったという仕草だった。その人は20代半ばくらいで、よれよれになった長袖シャツを着ていた。ズボンは腰まで下げていて、履き潰したスニーカーはかかとを踏みつけていた。
「おかしいなあ」
ズボンのポケットを探り、かばんの中を覗き込み、またズボンのポケットを探り、そしてかばんの中を覗き込む作業を延々と繰り返していた。
「お客さん……」
さすがに運転手も呆れたという表情をした。
「おかしいなあ」
乗客からもいい加減に出発してくれという無言の訴えが出始めていた。
「乗る前からなかったんじゃないの?」
運転手がそう言った。
「おかしいなあ」
由美子と私は大学からの帰り道だった。今日は2人ともゴッホでのアルバイトはなかった。それで急いではいなかった。もしシフトが入っていたら、もしかしたら私だったら叫んでいたかもしれない。
(いい加減にして)
声には出さなくとも、心の中ではそう叫んでいたかもしれない。
結局その乗客は運賃を免除される形になって、そのバス停で降りた。降りる時に運転手から、次にバスに乗ったら今日の分を加えた額を支払うように言われた。
バスが駅前の終点に着くと、急に由美子がカラオケに行かないかと誘ってきた。
私は特にカラオケが好きだったわけではないし、好きでもないことにお金を遣うのはもったいないと思った。それでも由美子は自分が払うからと言って、強引に誘って来るので、私は仕方なく彼女に付き合うことにした。
「ここのスイーツ、意外と美味しいんだよ」
由美子はそう言ってテーブルの上にあったメニューからあれこれと食べ物を注文した。
「由美子、私、そんなにお金ないよ」
私は急に心配になって来た。先日アルバイトの給料が出たばかりで、幾らかは余裕があったが、それでもカラオケ代に加えてケーキやらパスタやら、色々と注文をされるとお財布の中身が心配になった。
「平気、平気」
「でも」
それにいつも由美子におごってもらうことにも引け目を感じていた。
すると由美子は自分のかばんをごそごそとまさぐり始め、何か財布のようなものを取り出した。
「今日の資金はこれ」
「え?」
私はそう言われてそれを凝視すると、どうやら男物の財布のようだった。
「それってなあに?」
「拾ったの」
「え? いつ?」
「さっき、バスの中で」
「え!」
私はその瞬間、その財布はあの男の人の財布ではないかと思った。
「それって、さっき財布がなくなったって言ってた人の?」
「たぶんね」
「え」
私はいったいどうゆうことかと思った。由美子はその財布をどうしたのかと思った。
「あの人が座ってた席に落ちてたから」
「じゃあ、それを拾ったの?」
「うん。彼が立ち上がった時に何かがポケットから落ちるのが見えたの」
「そうなんだ」
私はその時、何故由美子がそのことを言ってあげなかったのだろうと思った。
「気が付くかなと思ったら、そのまま行ってしまって、それから運転手となんかもめてたでしょ?」
「……」
「二人がやり合ってる中に出て行くのもなんか嫌だったし」
私は何も言えなかった。
「さっき中身を見たら2000円しか入ってないの」
「身分証明書とかは?」
「なかったよ」
「身元がわかるものも入ってなかったし、交番に届けてもっていう金額だし」
「でも届けようよ」
私は急に心臓がドキドキし始めて、それで由美子を説得し始めた。
「だってもう注文しちゃったよ」
「え?」
私は一瞬なんのことだろうと思った。
「パスタとかケーキとか、いま注文しちゃったじゃん」
私は、あ、そのことかと思った。
「今日お金持って来てないよ。那美だってないんでしょ」
私はその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「だからこれはラッキーということで」
「え」
それでも私の気持ちは大きく揺れていた。
「半分は那美の取り分だよ」
「いらないよ。そんなの」
「いつも奢ってあげてるでしょ。だから今日は私にご馳走して」
そのお金を遣う権限なんて私にはなかった。だからこのお金をもって由美子にご馳走するなんて意味がつながらなかった。
その時、部屋のドアが開いて、注文した食べ物が運ばれて来た。
「うわー、美味しそう。さ、食べよう!」
由美子がそう叫んでポテトフライにプラスチックのフォークを突き刺すと、私はそこで観念した。
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