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20.
眩い星空が広がる夜。ここは、都の中でも一番の高級ホテルであるブレネスキ。
大理石が敷き詰められた豪勢なエントランスを抜けて、エレベーターで3階まで上がった先にある306号室。
大きな窓から夜景が見える広大なリビングの隣には、寝室にしては広過ぎるほどの空間が用意されており、中央には存在感のあるキングサイズのベッドがどっしりと構えている。
私は、その寝室の角にあるクローゼット内に身を潜めていた。2枚あるクローゼットの扉には通気のスリットが横並びに入っており、寝室の様子が隙間から観察出来る。
そして数十分後。その部屋に1人の女性が入ってきた。
緩やかに波打つロングヘアーの艶のある栗毛の髪。真っ赤なフリル付きドレスを着て、見惚れてしまうほどの妖艶さを放つ美女は、身体の半分はあろうかという、スラリと腰から伸びた脚を持つ見事なスタイルだった。
しかし、彼女はサイファーさんが用意した工作員であり、その正体はジュディさんだ。
普段から地味な格好で目立たないようにしているけれど、目の前にいる彼女が本当の姿。
そんな彼女がゆっくり外を眺めるフリをして窓へ近づくと、クローゼットに潜む私へ向けて可愛くウィンクをした。
これは『アレンの誘導に成功しました』という合図である。もう、彼女のウィンクにキュンとしている場合じゃない――。
[もう間もなく首が座りそうです。赤子もルナ様に抱っこしてもらえる日を、今か今かと心待ちにしているようです]
手紙をもらった日の夕方。
「あの、計画の全部とまでは言いませんから、冒頭だけでも教えて頂けませんでしょうか……?」
「かしこまりました」
私はラ・コルネの事務室で、サイファーさんから計画の冒頭だけを打ち明けてもらっていた。しかし、その内容は衝撃的なものだった。
「ジュ、ジュディさんが……ア、アレンの愛人?」
辿々しく再確認する私に、サイファーさんが真顔でコクリと頷く。
「はい。計画を立案してから、彼女はアレン様が出席する社交界に潜り込んで接触していたのです。そこから何度か会食を重ねた感触を見て、そろそろ頃合いかと思いまして」
「こ、頃合いって、一体何をされるおつもりなんですか……?」
ジュディさんがとんでもないことに巻き込まれるんじゃないかと、不安に押し潰されそうになる私。しかし、サイファーさんは表情一つ曇らせなかった。
「アレン様にジュディを抱いて頂くのです。もちろん、ご結婚されているアレン様からすれば不貞となりますから、私共はその現場を抑えます」
耳を疑うような言葉が、淡々と彼の口から吐き出された。
この計画冒頭の筋書きを、サイファーさんは順番に説明してくれた。
1.まず、工作員のカップルが306号室へ入室し“鍵を掛けない”でおく。
2.ジュディさんが309号室と間違えて306号室へ入り、共用廊下側のドアノブに腕輪をぶら下げる。この時、工作員カップルはクローゼットに潜んだ状態で待機。
3.ジュディさんの腕輪を発見したアレンが、何も知らずに306号室へ入室。2人の情事が始まったところを、工作員カップルが目撃する事実を作り上げる。
というもの。
浮気相手がホテルの廊下に目印を設置して、その後にアレンが人目を忍んで目印を宛てに時間差で部屋へ入る。これは警戒心の強いアレンが、浮気相手と密会する際に使用する手口。
しかし、ホテルの受付を介さないアレンは、浮気相手がどの部屋を取ったかまでは判別出来ないため、浮気相手が部屋を間違えたことに気付かない。
工作員カップルが不貞の目撃者として飛び出した際、もしアレンからクローゼット内にいた理由を突っ込まれたとしても『恥ずかしさから、クローゼット内でイチャついていただけ』と、適当な理由を付ける手筈となっていた。
アレンの手口を逆手に取る手法を考案したサイファーさんは、自信ありげに微笑んだ。
「多少無理がある設定に思えますが、全く問題ございません。そもそも不貞現場の目撃など“偶然の連続によって起きる”ものですから。大事なのはアレン様がジュディと不貞したという既成事実を作ることです。それさえ出来れば、経緯はさほど重要ではございません」
驚愕の手順を聞かされ、背中にブワッと冷や汗をかいた瞬間だった。
本気なの、サイファーさん……?
無理だよそんなの……!
ジュディさんは男から暴行を受けてるから、絶対に男性への恐怖心があるはず。そんな状況なんかになったら、普通の精神状態ではいられない。何より、彼女に負担をかけてしまうことに私自身の胸が痛む。
『もう今の俺に君は必要ないんだ。すまんな! ――』
あの時にアレンが、私が愛人になる申し出を断ってきたのも、すでにジュディさんと接触してたからなんだ。
「そんな、ダ、ダメですよ! だってジュディさんは――」
焦りを隠せず、机に両手をついて椅子から立ち上がった私の腕を、隣にいたジュディさんが優しく掴んだ。
「ご心配いりませんわ、ルナ様。私はプロですから、仕事と割り切って完璧に演じることが出来ます。大丈夫。性癖を装ってアレンには手錠をかけますから、ルナ様はご安心下さい」
そう言って微笑んだジュディさんを尻目に、私は深呼吸して正面を向いた。
「ダメです。計画の変更が出来ないのなら……私もそこに立ち会います」
サイファーさんの目を見てそう告げると、彼は困ったように顔を顰めた。
「ルナ様、お言葉ですがそれはお勧め出来ません。免疫のない貴女様が計画の進行を目の当たりしたら、心的外傷ストレス症候群に陥って、男性不信になる恐れがございます」
「構いません! 私にはクライアントとして、計画を最初から最後まで見届ける責務があるはずです。ジュディさんだけに……辛い思いをさせたくありません」
ジュディさんが心配そうに私を見上げて「ルナ様……」と呟く。サイファーさんが下を向いて呆れたように首を横に振った。
「仕方ありませんね。それでは予定を少し変更致しましょう」
「どうすればいいですか……?」
考え込むように顎へ手を添えたサイファーさんが、しばらくしてから顔を上げた。
「……カップルとなる女性工作員を、ルナ様と入れ替えましょう。ルナ様は現場のクローゼットに隠れていて下さい。これでいかがでしょう?」
問われた私は、ゴクリと息を呑んだ。
つまり、アレンとジュディさんの情事を、私が見届ける――ということ。
正直、気が進まないなんてレベルの話ではない。
けれど、いくらジュディさん自身がプロと称したところで、それを知ってしまったら、別の場所で他人事のように待ってなんかいられない。
私は悪魔に魂を売るつもりで、サイファーさんにアレン達への復讐を依頼したんだ。覚悟を決めなければならない。
「……わかりました」
「ルナ様……!」
憂う瞳を向けるジュディさんに、私は首を横に振った――。
こうして、現地でカップル役の男性工作員と合流した私。
「初めまして、ラグナと申します」
「ルナです……よ、宜しくお願い致します」
工作員のラグナさんは30代半ばくらいの男性で、私とカップルを組むには少し年齢が離れすぎにも思えたけれど、サイファーさん曰く『ルナ様の立場からすれば、むしろリアリティーがある』と、意味深なことを言われた。
そして、内心から込み上げてくる不安を押し殺しながらクローゼットの扉を開け、私とラグナさんは中に隠れてジュディさんを待っていた――。
ジュディさんが入室してから約20分ほど経過した時、不意に寝室の扉が開いた。そこには、興奮気味に鼻息を乱すアレンが立っていた。
「待たせたな……」
そして、窓際にいるジュディさんの背後に体をピッタリと寄せ、彼女の肩に手を置いて耳元で囁き始める。
「ジュディ、君は本当に美しい。惚れ惚れするよ」
「ふふ、褒めてもらえるのは嬉しいですけれど、貴方様はこれから休まれるんでしょ?」
「意地悪だな。もうわかってるだろ?」
「あ……ち、ちょっと!」
アレンはジュディさんを強引にベッドへ押し倒すと、彼女に覆い被さるように抱きついた――。
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