後編

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 シワやシミのある顔が……涙でぐちゃぐちゃで……醜いったら…… 『さあ、終わらせよう。本来、君が一番憎んでいたのは、この女だったはずだ』  彼の声がすぐ横で聞こえた。そう言われるとそんなような気がしてきたわ。  先生、私は母を何回刺した? そう、二十七ヶ所?  じゃあ、亮子より半分も刺してなかったんだ。わかるの、私、しっかりしてるんだから。  警察が……やって来たのもわかったわ。たくさんの足音が外の廊下を近づいてきてるのがちゃんと聞こえたし。 『残念だ。君とはお別れしなきゃ』  動かなくなった母から顔を上げると、すぐ先の開け放った窓の縁に彼が腰掛けていた。 『なんで? 友だちだって言ったじゃない』  彼の笑顔は奇妙に歪んでいた。でも、なぜか満足しているのはわかったの。 『ぼくのことを……人はいろんな名で呼ぶ。生ける死者、ヴァンピール、ドラクル、悪魔、死神……何でもいいさ。  どれも同じだ。人はぼくを恐れる。  なぜなら君たちの内部(なか)に潜む恐怖と狂気が実体化したものだから。  友だちだと言ったのは嘘じゃないよ。ぼくは君の恐怖と狂気に惹かれて現れた。君の狂気じたいがぼくには最高のご馳走だったから。……でも、もう君といても、何も得るものが無くなった。  だからお別れだ。さようなら』  彼は黒いマントを羽のように広げると、次の瞬間、窓の外へ落ちていったの。  すぐに窓に駆け寄って、下をのぞいたけど……誰も落ちてはいなかった。  ただ、やけに深い闇が広がっていただけ。  そう、消えたの! 彼は闇に溶けてしまった。いなくなったの!  そして二度と戻ってこない!! 」 **********  録音はここで終わっている。不謹慎な言い方だが、かなり劇的に聞こえなくもない。  ここであらためて事件を説明する。  まず八月二十二日午後十時、それまで会社の飲み会に出席していた岸田は同僚と別れ、電車に乗った。三十分後、T駅のトイレで女物の服に着換えると、午後十一時すぎ、近くの陸橋の上から飛び降り自殺を図ろうとした。  だが、ここで気が変わったのか(供述では「彼」と出会ったと言っている)、午前零時頃そのまま自宅へ向かう。死亡推定時刻の二十三日午前一時すぎ、岸田は妻の亮子さん(二六)を刃渡り二十センチの穴明き包丁で殺害する。
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