田中美雪

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 還暦まで処女で通してしまった。  その事実に、私が しみじみ感動したのは、私の六十歳の誕生日じゃなく、満六十歳になった月の最後の日だった。より正確に言うなら、私が満六十歳になった月の勤務先の最終営業日。  たまたま最終営業日が月の最後の日だったから、感動のピークが最終日になったけど、月の最終日が土日に当たっていたら、私の感動の山場は その前日――金曜日になっていたと思う。  つまり、私の感動は、自然な感動じゃなく、社会的な感動だったのよ。  その日、私は、会社員田中美雪でいることをやめ、無職の田中美雪になった。  その日、満六十歳の私は、三十年間勤めた会社をめでたく定年退職したの。  勤続三十八年でなく三十年なのは、私が三十歳の時に一度転職したせい。  私が前職――都内某私立大学文学部を卒業して就職した会社の職――を八年で辞めたのは、直属の上司の人間性が嫌いで嫌いで、我慢の限界が来たから。かつ、当たり前のことみたいに強いられるサービス残業を納得できなかったから。かてて加えて、『女子だけ禁煙。だが、男性社員が使った百個前後の灰皿を洗うのは女子社員の(就業時間外の)日々の務め』っていう、男尊女卑の社風に嫌気がさしたから。  等々、いくつかの真っ当な理由が重なってのこと。  決して、私が三十歳を過ぎても処女だという事実を隠すためじゃなかったのよ。
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