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──黒い、黒い、暗い。粘度のある暗闇が辺りに満ちている。怠惰が、欺瞞が、絶望が。俺の首根を締め上げる。前へ進め、すすめと締め上げる。苦しさに耐えかね手を払おうとすればその手の甲にはべったりと諦めが絡みついた。指の間から滴るそれはひどく澱んで暗い色をしている。
進めども進めども、先は昏い。
絡みついた諦めの澱み具合に吐き気がした。
血錆にも似た匂いは鼻につき、眉を顰めると口を押さえる。吐くな、吐くな。前へと進め。進めばいつかは先が拓ける。進め、すすめ。首根を締め上げる暗い思いを背に背負い、進め、すすめ。たとえ重みで骨が軋み這いずることになろうとも。
一歩進むごとに、足取りは重くなる。進むごとに怠惰に足を掴まれ、引き留められる。この地に在れと。停滞と暗澹が満ちるこの地に在れと。
進めども進めども、先は昏い。
背を苛む重みに耐えかね疲労と諦観に満ちたまなこをゆっくりと閉じようとした。そのとき。……視線を前に向けた時に、微かな光が見えた気がした。
「──……!!」
俺は光に向けて最後の気力を振り絞り駆け出す。あの光に辿り着けば救われる、そんな願いにも似た衝動に突き動かされるままに走った。重みも鼻をつく匂いも今は気にならない。早く、はやく。この場から救われたかった。
心臓が早鐘を打つ。徐々に息が上がる。
それでもそんなことは気にならなかった。
救いを求めて、走り続けた。
──
「──……?」
やがて辿り着いた光の主は、鏡だった。
だが正確には鏡本体ではない。
鏡に映る自分がぼうと燐光を放っていた。
俺は疲れきったまなこを驚きに見開く。
鏡に映る俺は楽しげに笑った。
『今までおつかれさま』
その言葉の意図が汲み取れず、かといって後に続く言葉を吐き出せるほどに息が整っているわけでもなく。無言で首を傾げてみせた俺に鏡像は優しく囁いた。
なにより忌むべき呪いの言葉を。
『お前のことは誰よりもずっと見てきた。
自分をよく見せようと虚勢を張り、疲れた時に誰かに寄りかかる勇気も無く偽りの言葉で誤魔化して、怒った時には何でもないよと事なかれ主義の定型句で濁してきた。お前のことは誰よりもよく知ってる。
──どうだい、「そっち側」の住み心地は。見たところ幸せとはほど遠い顔をしてるけど』
「──……!!」
腹の底からこみ上げる激情。──ただの鏡に何が分かる。俺は怒りに震えると鏡像に向けて手を伸ばした。叶うのならばよく喋る自分の分身を叩き割って黙らせてやろうと。自らの瑕疵を素手でえぐり、膿んだ心を溢れさせる高慢な鏡を叩き割って二度と口をきけなくしてしまおうと。
しかし、鏡像に手は届かない。
鏡面を殴ろうとした指先は、とぷん、と。鏡の中へと飲み込まれる。拳を生ぬるい水に浸したかのような感覚に全身が総毛立ち、慌てて手を引き抜こうとした。だが拳は抜けない。抜けないどころか、手首、肘、二の腕と飲み込まれていく。どろどろとした温かさは心地良いとは到底呼び難いが、血錆の匂いも、暗さもなく靄がかかったように不鮮明な安寧を連れてくる。
鏡像は歓喜に震えた声を張り上げた。
『──……これからは「お前がこっちに来る」んだ。その代わり俺がお前の代わりになる。大丈夫、「こっち側」には心の痛みも辛さも何もない。ただ恒久不変の静けさだけがある。
……ああ、一度「向こう側」に行ってみたかったんだよなぁ。お前が当たり前に享受していた温かさも愛も、優しさも、これからは俺だけのもの。
お前が当たり前に受け容れて不平不満を言っていた痛みも俺だけのもの。お前が独り占めしていたものを、これからは俺が全部貰うことが出来るんだ!!』
……そこで、ようやく気付いた。
俺が普段鏡の中の自分を見つめていたように、鏡像も俺のことを見つめていたのだ。洗面台から、窓ガラスから、車のミラーから、写真から、水面から。ずっとずうっと見つめて、考えていたのだ。
『こちら側』に来てみたいと。
理解が及んだ瞬間に背筋が粟立つ。このままでは俺が「俺の姿を模したもの」に取って代わられてしまう。早く抜け出さないとならない。早く抜け出さないと、家族にも、友人にも、二度と会えなくなってしまう。
──だが、焦りと裏腹に鏡面には肩まで飲み込まれてしまっている。頭も徐々に、じょじょに鏡の中へ引き込まれていく。暖かくて優しくて、白く靄がかかった安寧の中へと引きずり込まれる。
ず、ずず、
ずず、ず、
待って、待ってくれ。
ずず、ず、
俺はまだ伝えられてないことがたくさんある。
母さんにいつもありがとうと伝えられていない、妹にも喧嘩ばかりしているけど嫌いじゃないと伝えられていない、悪ふざけに勤しんだ友達にもお前と居る時間は楽しいと伝えられていない!
ず、ずず、
待ってくれ、俺はまだ──、
とぷん。
鏡像──……否、『俺』は鏡の向こう側で嗤う。
「そこはお前が望んだ世界。他人の悪口を聞くことも怒りの感情を浴びることもない。怠惰も、欺瞞も、絶望もない。その代わり他人の優しい言葉も温かい言葉もない、希望もない、優しく、優しく、
──ひたすらに孤独な世界だよ」
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