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昭和の頃から使っているという壁掛け時計の針が夕方の五時を指すのを見て、私は腰を上げた。
「そろそろ帰らなくっちゃ」
テーブルの上のおせんべいやお茶、チラシで作ったくず入れなんかを片付けながら身支度も整える。
すると向かいに座る父親が「もうそんな時間か」と言って、この年代の人特有ののっそりとした動きで立ち上がった。
父が独りで暮らすこの家に、私は月に一度は顔を出しに来ている。午前中には訪れて、片づけをしたり話をしたりして過ごす。夕飯まで食べていくと何だかんだで泊まることになり、着換えなどを持ってくることになって荷物が重くなってしまうので、それよりも早い時間に出ることにしていた。
「せっかく遠くから来てくれてるんだもんな。何かやれたら良いんだが」
そう言いながら手近に適当に置かれていた干し柿をビニール袋に入れて渡してくる。
「お父さんのおやつでしょ、良いよ」
断ると少し、しょぼんとする。
「そうか。また来るか」
「また来るよ。毎月来てるでしょ。それにそんなに遠くないよ」
父の家から私が独り暮らししているアパートまで電車で一時間半ほどだ。そんなに遠いというほどでもない。
「じゃあね」と靴を履いて玄関を出ようとすると、「ちょっと待て」と止められる。
「お前、そんな薄着で来たのか」
シャツにカーディガンを羽織っている私の服装に、父は「待ってろ」と言って部屋に戻る。
「これ着ていけ」
そうして差し出されたのは父のジャンパー。
「えっ、別にそこまで寒くないし良いよ」
むしろ一年で一番過ごしやすい気候の季節だ。
「良いから着ていけ。夕方から寒くなるって天気予報で言っていたんだ」
ぐいと押し付けられたそのジャンパーからは、父の匂いがした。
「でもこれ無かったら、お父さんが寒いでしょう?」
「上着は他にもあるんだ。それに、近所なんだからすぐに返しに来られるだろ」
さっきまでは遠くと言っていたのに、いつの間にかご近所さんだ。
父に渡されたジャンパーを広げてみる。私ももう大きくなったと思っていたけれど、やっぱり父には敵わない。歳を取って背が低くなって、心なしか小さく見えるようになってもやっぱり、父は大きいのだ。
羽織ってみると、袖が余った。子どもの頃に悪戯で父の服を着た時のことを思い出す。靴もがぼがぼで、お父さんはすごく大きいんだなぁと純粋に驚いたものだ。
「じゃあ、借りてこうかな」
「そうしとけ。寒いからな。気を付けて帰れよ」
「はいはい」
手をバイバイ、と振って玄関先でお別れ。少し歩いたところでびゅう、と風が吹いてきて体を縮める。
「夕方から冷えるってほんとうだったんだ」
ジャンパーの前を合わせて、あれ、と気づく。何だか、どこかが……。
「あったかい……?」
その温度の在り処を探ってみると、それはポケットの中に入っていた。
――ホッカイロ。
「お父さん、入れといてくれたんだ」
そのぬくもりに顔が綻ぶ。
ホッカイロは袋から開けてすぐに温まるものじゃない。空気を入れて振ったり、少し待ったりしなくちゃほかほかにはならないのだ。
ついさっき渡された上着に入れられたこのホッカイロがすでにこんなにあったかいということは、父があらかじめ準備していたということだろう。
今日は娘が来る日だぞ、と朝から天気予報をチェックして、私が薄着なことに気付いて、どこかのタイミングでこっそりホッカイロを開けてジャンパーに仕込んでおいたのだ。
お父さんはいつも優しい。
大きなジャンパーの大きなポケットに手を突っ込んで、抱えきれない愛情を想う。
子どもの頃の冬、足が冷えてしもやけになりやすい私のために靴をストーブの前で温めてくれていたことや、ほっぺを大きな両手で包んであったかさを分けてくれたことを思い出す。
次に来た時は泊まろうかな、夕飯に何か作ってあげようかな。そんなことを考えながら帰路を辿る。
父のくれたホッカイロは、家に帰っても、寝る前に触ってみても、まだまだずっと暖かかった。
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