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ポケットの中
「それじゃあ」
「うん」
国際空港の出発ロビーで私は付き合っている彼女に向かってそう挨拶を交わした。前日ほとんど眠れなかったために頭がぼんやりとしていた。表向きは新しい販路の確保のために1年間シンガポール支社に駐在することになっている。でも実はそこが最終目的地ではない。クアラルンプールに乗り換え、そこからは陸路で東南アジア一帯で諜報活動を行うことになっている。そう、私はスパイなのだ。
彼女とは5年間付き合っているが、そのことは一切話していない。私の正体がバレれば彼女にも危険がおよぶ可能性がある。だから秘密だ。いたって普通のOLである彼女を私の諜報活動に巻き込むわけにはいかない。
普段は竹を割ったような彼女だが、この日はどういうわけか物憂げな表情を浮かべていた。すると、「帰るのは一年後なんだよね」と彼女はポツリと言った。
うっかりしていた。一年もの長い間、黙って帰り待ってくれるほど世の中甘くない。コートのポケットに彼女に渡す指輪が入っている。婚約指輪だ。一年後帰国したら正式に結婚する。渡航の少し前に指輪のサイズを聞いたので、彼女のほうもそれとなく予感していたのだろう。出発の前に、片膝をついて彼女に愛を誓うつもりだ。
ところがコートのポケットに手を入れると、そこにあるはずの指輪ケースはなく、代わりに小型の拳銃が入っていた。これはどういうことか。
「どうしたの?」と彼女が聞いてきた。
「いや」と答えて思案する。昨晩、港から密入国したテロリストが来るという連絡を受けて仲間と一緒に取り押さえた。拳銃はそのとき使ったものだ。帰宅後に拳銃を元の場所に戻し、指輪ケースをコートのポケットに入れたはずだが、記憶がおぼろげだ。
「なんでもないよ」
指輪を渡すことができないのは大誤算だ。だが、それよりも問題はポケットの中の拳銃だ。空港職員に見つかれば私は飛行機に乗ることができないだろう。私の焦りが伝わったのかもしれない。ふと検疫の職員と目があった。職員の後ろに貼られたポスターには「武器の持ち込みは禁止」とでかでかと書かれている。
「行かないの?」と彼女が怪訝な表情で見つめている。航空券をチェックしている職員も私をみつめていた。チャンギ空港行きの搭乗時刻が迫っている。しかし、私はコートのポケットから手を出すことができなかった。ロッカーに預けるか? いや、そんな時間はない。
救いの神が現れたのはその直後だった。
「ねぇ、コートはいらないんじゃない?」
「え?」
私は彼女の言葉に驚いた。コートがいらないとはどういう意味だろうか。
「ほら、だってシンガポールは一年中暑いでしょう? 荷物になるから預かってあげましょうか? クリーニングに出しておいてもいいし」
思わぬ助け船がでた。彼女に正体がバレてしまうかもしれないが、それならそれで仕方がない。ひとまずは拳銃を預けて出国しなくては。
「悪いね、じゃぁそうするよ」
私がコートを脱いで彼女に渡すと、「あら」と驚いた顔をした。
「これは何?」
コートのポケットの中に彼女が手を入れる。
「それは」と私が言い訳を考える。今まで内緒にしてきたけど、私は実はスパイなのだ。そう言おうとしたのだが、彼女がポケットから取り出したのは指輪ケースだった。
◆
彼氏を乗せたボーイング787がシンガポール・チャンギ空港に向けて飛び立っていくのを出発ゲートのロビーから眺めていた。連絡は入ってきていないから多分無事に乗れたのだろう。シンガポールからクアラルンプールに行き、そこで仲間と合流する手はずになっている。そう、彼はスパイなのだ。
シンガポール支社で働くと言っていたのにチャンギ空港乗り換えクアラルンプール行きの航空券が机に出しっぱなしだったり、コートのポケットに拳銃が入っていたり、サプライズで渡すはずの婚約指輪の隠し場所がバレバレだったり、スパイにしては注意力が足りないので現地でうまくやっていけるか心配だ。
そこで上にかけあって私の駐在先もマレーシアにしてもらった。そこからなら問題が起きてもすぐ駆けつけることができるだろう。そう、私もまたスパイだ。
サポート役のポストを買って出る電話をしたとき、上からは何度も私情を挟んでいないかと念を押された。私は「いいえ、まったくそんなことはありません」と答えた。電話をしながら左手の薬指にぴったりおさまった小さなダイヤモンドつきの指輪を空にかざして見た。電話が音声だけで助かった。私はその指輪を眺めながらきっとにやにやと笑っていただろうから。
了
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