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▽
……過去にも似たようなことがあった気がする。
フランクはアパートメントに戻り、着ていたジャケットを脱ごうとした時に、そう頭に思い浮かべた。
帰宅して部屋でくつろぐ前の、ごく自然な動作だ。
普通、意識しなくてもこんなことは入居して以来数千回と繰り返してきた動作だ。
ごく普通の一場面なのに何かが引っかかる。
別にこのまま脱いで、ハンガーに引っ掛けてクローゼットに仕舞えばいいだけだ。
なのに、何か重要なことを忘れているような気がしてならない。
しばらくフィルムの止まった映画のように凍りついていたが、フランクは釈然としない表情で続きの動作をしてから今度こそ本当に止まり、それからその原因に手を伸ばした。
ジャケットの左のポケットに重い感触がある。
フランクは一旦脱ぐのをやめ左手をポケットに滑り込ませた。
指先を伸ばすと、硬くざらついた感触が伝わってきた。
掴んで取り出して見ると一握りの……握った拳の中に隠せる程の石の欠片だった。
部屋の照明に照らしつつ、向きを変えながらじっと石塊を見つめた。
自然界の石じゃない。
人造物の、コンクリートなど建材の破片だ。
解体現場に転がっているようなひとかけら。
特徴と言える特徴もなく、無造作に砕かれたただの石。
何でポケットなどに入ってるんだろう。
フランクは今日一日の行動を思い返した。
オフィスや路上、勤務先の往復以外に立ち寄った場所も思い出したが、まず自分からポケットに入れたものではないのは確実だ。
何かの拍子にポケットに転がり込んだというのか。
こういうものの散乱している場所に立ち寄った記憶はない。
じゃあ残るは誰かがこれを入れた。
何の為に?
悪戯や嫌がらせという線が思い浮かんだ。
眉根を潜めてじっと見つめていると、ある向きでは破片の断面に蜥蜴の形の模様が見えた気がした。
だがそれも偶然の見え方で向きが変わると蜥蜴はすぐに姿を消した。
全体的に普通の白みがかったグレーの中、ほんの少し赤みがかった部分があるのに気がついた。
ペンキなどの塗料のような、はっきりした発色ではなく、むしろ付着した血のように見える。
「よしてくれよ、おい」
急に気味が悪くなった。
部屋の中央に置いてあるテーブルの端に放すように置いた。
ジャケットを上から押さえてから、フランクは両手をポケットに差し入れ中を探った。
それから脱いだジャケットを両手で持ち、片方ずつポケットを裏返して他に何かが無いか確かめた。
他には変わったものは見つからない。
フランクはジャケットを椅子の背もたれにかけてテーブルを見ると、置いた筈の石塊が消えているのに気がついた。
何かの拍子に弾き飛ばされたのかと、周囲の床を見回しテーブルの下も覗き込んで探したが、ついさっき置いたそれはどこにも無い。
もう一度ジャケットに手をあてて上から探ったが何も入っていなかった。
彼は自分の両手を表裏と返して眺めた。
さっきまで触れていた石塊の感触はまだ残っているのだが、どこにもその痕跡は見つからない。
……自分は酒に酔っているわけでも無いし薬物もやっていない、まったく訳が分からなかった。
何かの幻を見ていたとしか言いようがなかった。
▽
休日のショッピングモールは人出で賑わっていた。
フランクは吹き抜けになったホールを歩き、ショッピングを愉しむ家族連れやカップルの歩く中を一人で歩いていた。
一応、買い物の目的はある。
モールの一角に営業するステーショナリーの専門店で万年筆のインクを買うのが一番の目的だ。
それから書店を覗き、買う予定は無いけれどインテリアの売り場も見ておきたい。
吹き抜けを突き抜けるエスカレーターに乗って上の階に昇った。
フロアーに足を置いてから、奇妙な感覚を味わった。
……まただ。
また過去にも似たようなことがあった気がする。
勿論、ここには以前にもきたことがある場所で、このルートも通った。
だが、そうじゃない。
彼は数日前の、アパートメントでのことを思い出した。
あれと繋がっている気がする。
周りを見回した。
馴染みのあるモールの風景だ、何度も訪れた。
だが何が違うのか。
フランクはフロアの端に立って再び見回した。
違和感のあるものは何も無い。
ふと頭に蜥蜴のシルエットが浮かんだ。
本物では無い、蜥蜴のように見えた断面の模様。
思い浮かべるうちに彼は愕然として理解した。
「自分は一度、この日を経験している」
そして同時に、稲光のように記憶が差し込んできた。
……「かつてあった事」ではなく、これからここで巻き起こる「未来」を思い出していた。
▲
それはこのフロアーの通路に置かれたバッグだった。
正体も目的も知らない何者かがそこに……忘れたかのように置いて、自分らは素知らぬ顔で立ち去って行った。
それからしばらくして強烈な赤い光と共に耳の奥を引き裂く音が周囲に弾けた。
……爆弾が使われたのだ。
フランクは……他の何人もの人々とともに……そのまま床に横たわっていた。
鼓膜は破られたが、固い床から骨を通して遠く人の右往左往する音が聴こえた。
強烈な痛みと、感覚の無い部分が混在して、自分の肉体がどうなっているのか分からなくなっていた。
立ち上がらなければ……と彼は思ったけれど身体がいうことを効かなかった。
仰向けに吹き飛ばされ顔が横に向いて転がっている。
フランクは急速に自分の中から血が失われているのが分かった。
頭に血が回らなくなるまでさほどかからなそうだ、と考えていた。
何てことだ、ここでお終いなのか。
フランクは床に転がりながらすれすれの視界を見ている内に、散乱している物の中に一つ、見つけたものがあった。
それは記憶にある。
あの日、ポケットから出てきた石だ。
ここからでは見えないが断面に蜥蜴のシルエットが見えるものだ。
フランクは今目の前にある石塊が、今度は幻ではないことを知っていた。
どういう理屈かは分からないが……彼は左腕を動かすようイメージした。
他の部分とは違い、それは動いた。
持ち上げることなく、床の上を這わせて見えていた石塊を掴むと、それを今度はジャケットの左のポケットまで近づけ、苦労しながら中に入れ終えた。
「思い出せ」フランクは薄れる意識で祈った。
「この石を見たら思い出すんだ、この「未来」を。そうして回避しろ……」
石塊にかすかにつけた血の痕跡で、この爆発の起こる前に思い出せればいいのだがな、フランク……
騒然としている爆発現場の中で、彼はゆっくりと目蓋を閉じた。
ポケットの中で蜥蜴の模様が眠っていた。
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