墨の海と泥魚

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墨の海と泥魚

 目を開けると、そこは墨の海のようだった。  上方は薄く、下方は濃い。  所々に、泥の花が咲いていた。  触れれば脆く崩れ、墨の濃淡の中に薄れていく。  知希はゆっくりと下降していた。  時々丸まったティッシュやお菓子の包み紙が目の前を通り過ぎていく。  突如、墨の海がうごめいた。  横からものすごい速さで何かが近づいてくる。  突然のことで固まっていると、大きな泥魚がヒレを揺らしながら勢いよく飛び出してきた。  近くにあったゴミをパクリ。  もしゃもしゃと咀嚼するように口周りの筋肉を動かし、やがて肛門から大量のドス黒い墨を噴射する。  硫黄のような匂いがして、知希は思わずむせってしまった。  凄まじい速さで、泥魚が振り返る。  よくみると、大きな眼球は見えないように縫われていた。 「な、なんだよ……」  泥魚は歯のない口を何度も開け閉めしながら知希の方へ近づいていく。 「く、来るな! 俺はゴミじゃないぞ!」  泥魚はゆっくりとヒレを何度も左右に揺らしながら、やがて向きを変えて去っていった。 (こ、怖かった……何だよあれ。あの魚のいないところに行こう)  知希は体を翻して黒い海の底を目指した。  深く潜れば潜るほど、海は濃さを増していく。  泥の花の数も増えてきた。  やがて墨を埋め尽くすほどの泥の花畑が見えて、その中心に愛が座っている。 「……愛」  驚いた顔で愛が振り向いた。  その顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。 「やっと見つけた。俺、聞きたいことがあって……」 「来ないで!」  知希は足を止めた。  愛は顔をそむけしゃっくりが起きそうなほど泣きじゃくっている。 「食べかけのお菓子に、飲み掛けのジュース……ここはゴミ箱みたいよ。でも、あれ……」  愛の指さす先には、破れて中綿の飛び出たぬいぐるみがある。 「あれ、あたしのだよね? 周りのも全部……あたしがあげたやつ……あんな、ゴミばっかり」 「……そうだよ。そんなの、今更だろ?」 「やっぱり、そうなんだ……ここはあんたのゴミ箱なんだね。あたしも、捨てられたんだ」  その言葉を聞いて、知希は強烈な吐き気を覚えた。  母親がしたように姉を捨ててしまった自分が、ひどく醜悪だと感じる気持ち。  捨てるきっかけを作ったのは愛の方だという気持ち。  その両方がごちゃ混ぜになって暴れている。 「泣かなくてもいいじゃないか。泣きたいのは……俺の、方」  握りしめた拳がぶるぶると震える。  奥歯を噛み締めても、溢れ出る涙は止まってくれなかった。 「俺だって捨てたいわけじゃなかった。ただ、惨めだった。母さんが俺を捨てて出て行って、でも新しい家族ができて、今度こそ、いっぱい笑い合えるって思ってたのに……お前が台無しにしたんだ!」  声がひっくり返るほど目一杯叫ぶと、愛は両手で顔を覆いながら突っ伏した。 「あたしだってあんなことがしたかったわけじゃない! ただ、あんたばっかり気にかけるママを見てたら……取られちゃう気がして……」 「え? なんて?」  知希は思わず拳を緩めた。 「いきなり知らない人がパパだって言われて、意味わかんない。あたしのパパは一人しかいないのに……」  愛の指の隙間からこぼれる涙を見ているうちに、せめぎ合っていた二つの気持ちは穏やかに静まっていった。 「あの……俺が嫌いでやってたわけじゃないの?」  涙はいつの間にか止まっていた。  知希は一歩前に進み出る。  愛がようやく顔を上げた。  その目には、散々みてきた嫌悪や怒りの色は浮かんでいない。 「私は、あんたのことが──」  愛が真実を紡ごうとした瞬間、背後に大きな泥の口が広がった。  知希が驚いて瞬きする間に、愛の体は一口で頭から腰まで食べられ、あっという間にバタバタともがく足まで綺麗に飲み込まれる。  先ほどより一回りも二回りも大きな泥魚が、満足そうにヒレを振った。 「え?」  知希は何が起こったのか俄には理解できず、瞬きを繰り返す。  やがて泥魚が身を翻して初めて、我に返った。 「待って! 愛を連れていかないで!」  墨の向こうへ消えて行こうとする泥魚を、知希は急いで追いかけていった。
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